ロスト・クロニクル~前編~


 これは、見るに耐えないほど酷い。気が弱い性格の持ち主であったら、この場から逃げ出していた。

 エイルは気が弱いというわけではないが、逃げ出すことを選択する。このまま話していることが我慢できなくなってしまったのだろう、エイルはテーブルを両手で叩くとその反動で椅子から腰を上げる。

 そして床に置いてあった荷物を手に取ると、無言のまま建物の外へと出て行ってしまった。

 無論、男は後を追う。

 その姿は逃げられた恋人を追い求めるように思えたが、そのようなドロドロとした関係ではない。一方的な思いなのか、執着心なのか――エイルにとって、これ以上の不快感はなかった。

「ついてこないで下さい」

「いいじゃないか」

「貴方は、いいでしょう。ですが、僕は嫌です。これから、迎えが来ます。ですので、お別れです」

 エイルは荒々しい口調で言い放つと、全身から「立ち去れ」というオーラを発し、相手を追い払おうと試みるが、相手は典型的な鈍感なので、そのことに全く気付いていない。それどころか、笑い出した。

 それも、先程と同じ笑い方。今までは閉鎖的な空間にいたので少しの犠牲で済んだのだが、外に出たことにより多くの人間が彼を目撃してしまう。お陰で、複数の被害者が誕生した。甲高い声と、か細い悲鳴。全ては女性の声音で、蜘蛛の子を散らしたように逃げ出した。

「な、何だ」

「貴方が悪いのです」

「何もしていない」

「していますよ」

 エイルは冷静で的確な突っ込みをいれると、村の出入り口に視線を向ける。すると、一台の馬車が此方に向かって走ってきた。型は「立派」という言葉が似合うものではなかったが、造りはいい。

 これは長距離の旅に用いる馬車なので、馬車の天井に荷物が置けるようになっている。そして手綱を引く御者の顔に、見覚えがあった。五十代後半の御者は、バゼラード家で働いているハーマンだ。

 その馬車が、エイルの前に止まった。そのことに男はギョっとした表情を作ると、エイルに説明を求めるが、彼が説明を返すことはしない。そもそも、言う必要がなかったからだ。ハーマンは馬車から降りるとエイルの前に立ち、深々と頭を垂れエイルに敬意を示した。