精霊の謳姫


着実に準備の時間が早まってきていることに先が思いやられるリディアだが、あまり荷物を広げていなかったのでなんとか彼の許容範囲内に収まる程度には支度を終えられた。
荷物は例によって一瞬でノヴァの小瓶の中へ吸収される。

当のノヴァは懐からまた白墨を取り出して、リディアの部屋の床にミロスの街で見たものと同じ転移魔法陣を描いていた。

複雑な記号や一見無計画に見える線が、彼の手によって一時の逡巡もなく、そして淀みなく書き綴られていく。
一体どれ程の知識が彼の頭の中に詰め込まれているのだろう。
彼がミロスで最年少の王宮魔導師として登用され、神童と呼ばれた由縁はそこにある。
どんな複雑な魔法陣も彼にかかれば手引書要らずの知識量を誇る明晰な頭脳は、彼の並外れた魔力に次ぐ強みとなっている。


一方アレンはといえば、先程から固い表情で窓から外の様子をじっと伺っていた。
その雰囲気から何やら只事ではないのは明らかで、シルフィードの報せ通り、やはり穏やかではない何かがこちらを追ってきているようだ。

心なしか、外の精霊たちも落ち着かない様子でふよふよと漂っている。

リディアはノヴァに状況の説明を求めようと思ったが、はたと思い留まった。
こういう時にノヴァが素直に答えてくれた試し
はない。
はぐらかされることを踏んで、リディアは彼ならと対象を変えた。


「ねぇ、アレン。…誰が”追って”きているの?」

「…リディア様?」


この状況において、全くの無知ではないことをほのめかす言い方と眼差し。
アレンはすぐに平静を装ったが、一瞬の動揺をリディアは見逃さなかった。


「『追う者がくるから逃げろ』って、アレン達がこの部屋に来る前に風の精霊が教えてくれたの。
…ねぇ、追う者って一体誰なの?」


嘘は許さないと、真っ直ぐ見つめる翡翠の瞳が強く物語っている。


「それは…、」

「リディア、アレン!!
何してるの早く陣の中に入って。飛ぶよ!」


言い淀んだアレンを遮り、ノヴァが一足早く書き終えた転移魔法陣の中から叫んだ。

アレンは困ったように眉尻を下げて、とりあえずここは行きましょうとリディアを陣へ促す。

しぶしぶそれに従い、胸の内に拭いきれないわだかまりを残すリディアの仏頂面を、光に包まれゆく簡素な部屋がぼんやりと見送った。