生活が苦しい時、たまたま京都の吉田万次郎から何度か連絡があった。

今思えば、あれは父親としての精一杯の歩み寄りだったのだろう。


カーカーを幸せにできなかった父を、俺は憎んでいた。
どうしても許せなかった。

だから、どんなに生活が苦しくても、父の援助は受けない。


そう決めていた・・・