気が付いたら、知らない部屋にいた。
1Kといったところだろうか、6畳程度のフローリングの部屋に布団が敷いてある。
あたりに目を向けてみるも他に家具らしい家具がない。
窓すらなく、ただ白い壁が不気味に囲み、そこに一点絵具を垂らしたような大きな青い扉がある。それ以外にはなにもなかった。

布団から抜け出し、今後は自分の身体に目を向けてみる。
痛みはない。すぐに起き上れるし、体も動かせる。
白いパーカーとジーパン。とてもラフな格好をしている。そして奇妙なことに靴も履いたままだった。

が、すぐにそれ以上の重大な異変に気付く。
―俺は、誰だ??
それだけじゃない。今までの記憶がない。
シナプスを総動員させてみる。今まで自分に起こった出来事、自分がどういう人間でどこで何をしてきたのか。
結果、その行動は無意味に終わる。全く思い出せないのだ。


記憶がなくなっていることに驚きはしたものの、思っていたほどにショックは受けなかった。今までの記憶の価値がどれほどのものかすら、記憶にないのだ。
ある意味、ショックを受ける方がおかしいかもしれない。


とにかく今は記憶がなくなった心配よりもこの不気味な部屋から出ることが先決だろう。幸いにして身体が動かせるわけだし、ここぞとばかりに主張する青い扉もある。大きいだけあって少し重いが、それでも素直に開いてくれる。

あたりはお昼だった。
太陽が高く世界を照らしており、雲一つない晴天だった。

記憶がない今、一つ一つのことを確認しなければならない。
まず、ここがどこかのマンションの一室であったということ、さらにわりと都会だということが分かる。それは、目の前に広がる自分の立ち位置の高さ、さらにビルの群れでわかる。
次に表札に目を向ける。名前こそないものの、自分がいた場所が「503号室」だったということが分かる。

少しずつあたりを見まわす。
503号室の隣には当然502号室があり、501号室があった。
501号室の前には水の垂れたビニール傘があり、無人ではないことに安堵する。

すぐにでも501号室に行って、誰か呼んでもらった方がいいだろうか。
だがすぐに逆の考えが浮かぶ。自分が何者なのかもわからない今、考えなしに人に助けを呼ぶ行為は危険かもしれない。そもそも501号室に住んでる人が分からない以上、危険な目にあうかもしれないのだ。それよりかは、近くのお店に行った方が安全だろう。。。

俺は下に向かう経路を探し出す。
エレベーターを探すがどうやらないらしく、階段で一階まで降りることにする。
階段を下りると出口は一か所しかなく、それも簡易な黒い門があるだけだった。
鍵もないため簡単に開く。
すぐに道路に出て反対側の歩道にわたり、自分がいたマンションを見てみると
まさに白い壁のような建築物が目の前にあった。

隣は駐車場で、反対側は空き地になっているせいか余計にこのマンションだけが異次元世界の物体ように感じられる。
と同時に、少し寒さを感じる。太陽こそ出ているものの、パーカー一枚とジーパンでは寒い季節なのかもしれない。
実際、街行く人はそれなりのコートを羽織っている。

出てみると案外すぐ近くに大きな通りがあり、車も行き来している。
通りに出てみると、右手にコンビニが見える。中央区日本橋店とある以上、ここは東京なのだろう。
コンビニに入れば時間と日付ぐらいはわかるだろうと自分に言い聞かせ入ってみる。まず、すぐに時計を見る。今は13:00過ぎだ。そのせいか、店内にはサラリーマンの姿も多く見える。
次に新聞に目を向ける。今日の日付を確認すると10月17日であることがわかる。新聞では、それ以外にも政治家の横領事件が相次いでいること、岐阜県ではゲリラ豪雨があったこと、一方の東京はここのところ晴天続きで水が枯渇気味であることが分かるが、自分の記憶に結びつきそうなニュースはない。

ズボンのポケットを触ってみてもお金が入っている様子はなく、しかたなく雑誌コーナーで立ち読みする。しかし、ふと手が止まる。
その動作があまりにも自然すぎる。前にも似たようなことがあった気がするのだ。俺はどこかのコンビニに入り、雑誌コーナーの雑誌を引き抜く。確かに、その行動をした記憶があるのだが、それがいつのことでどこのできごとだったか肝心のところが思い出せない。

手を空で止めた俺が不審者と見えたのか、コンビニの店員がこちらに目を向ける。気まずさが残り、いったんトイレに逃げることにした。
トイレの鏡を見ても全く身に覚えのない顔がそこにはある。
ぼさぼさの黒髪に、男にしては大きめの目。シャープな顔つきだがきつさは与えない感じの顔だ。
肩幅は広く、筋肉もついている。なんらかのスポーツをしていたに違いない。そういえば、さっき階段を下りたときも息が乱れなかったことから、体は鍛えていたのかもしれない。

あまり長くトイレに入っていても申し訳ないと、そこまで確認したらもう一度店内に戻る。相変わらずサラリーマンの多い店内だが、それでも雑誌を立ち読みしている奴はいない。雑誌コーナーに戻るとトイレに入るまではいなかった老人がいた。黒の帽子に黒のコード、茶色のズボンで黄色の長靴を履いており身長は自分より頭一つ小さい。見たところ高貴な印象を受ける紳士だ。

あまりにしげしげと見ていたせいだろうか、声を掛けられる。
「何か、お困りかな」
低くしっかりとした声だ。声のトーンからするにそこまで歳がいっていないのかもしれない。
「は、はあ」
曖昧な返事しかできない。
「この歳になるとやることもなくてね、毎日ここで雑誌を読んでいるよ」
少し笑みがこぼしながら持っていたゴルフ雑誌をちょいとあげる。
「ゴルフがお好きなんですか?」
本来、会話をつづける意味はない。ただ、記憶をなくした自分を存在するものとして認識してくれた喜びだろうか、会話を続けてしまう。
その反応が意外だったのか、老人はこちらを見る。下から舐めるような目つきだ。その目の動きに合わせて、こちらも老人を見返す。さっきまではよく見えなかったが、黄色の長靴は意外にも泥がついていた。だが黒のコートはいかにも高そうで、そこだけを見ればイギリスの紳士である。視線を手繰り合わせついに目があった。細い目は光を帯び、どことなく威圧感を与える。少しだけ身構えてしまう。
「それなりに。」