わたしはやっぱりマスターのことをなんにも知らない。マスターはわたしにどうしてなにも教えてくれないのだろう。さっきまでずっとこらえていた涙が溢れ出す。それはきっと美篶さんには見せてはいけない涙だけど、わたしにはもう堪えられなかった。木のテーブルの上に、わたしの涙がポタポタと零れる。今すぐ竹岡に帰って、マスターに会いたい。すぐにマスターに会いたい。でもきっとわたしが竹岡に帰っても、過ぎてしまったものはもうなにも変わらない。わたしはマスターになにひとつしてあげられることがない。それは石よりも固い現実だ。その動かしようのない自分の無力さが、わたしをとてつもなく悲しい気持ちにさせる。なんで今わたしはここにいて、なんで今日美篶さんに会いにきたんだろう。
「柊ちゃん。わたしはあの人の心の中に入りたかった。あの人を救いたかった。でもできなかったわ。あの人はそれからほどなくして会社を辞めてしまった。部下じゃなくなったわたしは、あの人とは関係のない人になってしまったの」
「マスターが、美篶さんを、会社のみんなを拒んだということですか?」
私は泣きながら美篶さんに問いかける。
「ううん。それは違うわ、柊ちゃん。あの人はただいろいろなことを自分で受け入れただけだと思うの。あの人は彼女を失ったあとも、今までどおり働いていたのよ。前にも話したけれど、彼のお客さんはみんな彼のことが大好きだった。それは彼が本気でその仕事をやっていた証拠よ。なにかを拒んだり、なにかを憎んだりしたら、誰かを笑顔にするような仕事はできないものなの。会社のみんなも、あの人のことが大好きだったわ。同じ部署の人も、別の部署の人もみんな、誰もがあの人がいることで救われていたの。そういう人だったのよ。そしてみんな安心していたの。彼がそのままふつうに働いてくれていることに。彼はああいう人だからふだんは表には出さないだけで、受けたショックは相当なものだっていうことが、誰にだって想像はついたわ。でもそれでも少しずつ立ち直っているんだって思っていたの。でもそれは違った。誰も彼の本当の心はわからなかった。結局あの人は、静かに会社を辞めてしまった。誰もあの人の心の中に入れなかったの」
「柊ちゃん。わたしはあの人の心の中に入りたかった。あの人を救いたかった。でもできなかったわ。あの人はそれからほどなくして会社を辞めてしまった。部下じゃなくなったわたしは、あの人とは関係のない人になってしまったの」
「マスターが、美篶さんを、会社のみんなを拒んだということですか?」
私は泣きながら美篶さんに問いかける。
「ううん。それは違うわ、柊ちゃん。あの人はただいろいろなことを自分で受け入れただけだと思うの。あの人は彼女を失ったあとも、今までどおり働いていたのよ。前にも話したけれど、彼のお客さんはみんな彼のことが大好きだった。それは彼が本気でその仕事をやっていた証拠よ。なにかを拒んだり、なにかを憎んだりしたら、誰かを笑顔にするような仕事はできないものなの。会社のみんなも、あの人のことが大好きだったわ。同じ部署の人も、別の部署の人もみんな、誰もがあの人がいることで救われていたの。そういう人だったのよ。そしてみんな安心していたの。彼がそのままふつうに働いてくれていることに。彼はああいう人だからふだんは表には出さないだけで、受けたショックは相当なものだっていうことが、誰にだって想像はついたわ。でもそれでも少しずつ立ち直っているんだって思っていたの。でもそれは違った。誰も彼の本当の心はわからなかった。結局あの人は、静かに会社を辞めてしまった。誰もあの人の心の中に入れなかったの」
