りんどう珈琲丸

「友達?」
「ああそうだ」
「友達…」


 70歳の友達というのが、わたしにはぴんとこない。アルバイトの帰り道に自転車をこぎながら、わたしは考える。でもマスターがわたしに伝えようとしていることは、ぼんやりとわかった気がする。だからといってわたしがどうしたらいいのかなんてぜんぜんわからない。須田さんが恐れている空白の時間に自分が浸食されてしまう恐怖を、わたしがやわらげることなんてきっと不可能だ。でも今この瞬間もあの大きな家で一人で過ごしている須田さんのことを考えると、わたしは胸が苦しくなる。
 マスターはそのことをどう思うのだろう。須田さんが恐れている認知症の進行を、マスターはどう考えているんだろう。マスターは友達として、須田さんにどう向き合おうとしているのだろう。でもそのことをマスターに聞いても、きっと答えてはくれない。


 翌日の夕方、須田さんがひとりでりんどう珈琲にやってくる。須田さんは車いすを自分でぎこちなく動かしながら、狭い路地を入ってくる。そして昨日と同じ場所に車いすを停めて、ドアを開けて入ってくる。
 わたしは須田さんの姿を見たときに、嬉しくて涙が出そうになる。マスターはなにくわぬ顔で須田さんを迎える。
「こんにちは、須田さん」
「やあマスター、柊ちゃん」

「一人で外に出たのは久しぶりだから、なんだか疲れたよ」
 そういって須田さんは珈琲を美味しそうに飲み干す。須田さんは今日もきちんとした身なりで、こざっぱりとした格好をしている。昨日マスターからもらったケーキを食べたら、予想以上に美味しくて、それで珈琲が飲みたくなったんだそうだ。わたしはマスターの珈琲は魔法だと思う。瀬川さんは須田さんが無気力で自分からは外出をしようとしないと言っていた。でも彼は今日、マスターの珈琲を飲みにこの場所にひとりでやって来た。

「お一人でも車いすなんですね」
「ああ、あれか。なんだかもう慣れちゃってね。実際足の具合もあんまりよくないんだ」
「そうですか。なにか音楽をかけましょうか」
「そうだね。またピアノのやつを頼むよ」
「はい」
 そう言ってマスターは背を向けると、レコードをターンテーブルに載せる。
「これは誰だい?」
「はい。これはベン・フォールズっていう男です」
「ベン・フォールズ…」
「はい。現代でもまともなピアノを弾くミュージシャンのうちの一人です」