新緑の癒し手


 森全体に響き渡る竜の咆哮に、森の住人達が一斉に逃げ出す。鳥は何枚もの羽根を残し大空に舞い、地上の生き物は一目散に退散する。中には腰が抜けてしまった生き物もいるらしく、身体を丸めて小刻みに震えていた。森の生態系を一変させるダレスの迫力に、ヘルバの額に嫌な汗が滲む。

 殺してやる。

 囁かれた言葉は、ダレスの本音といっていいもの。長い年月、彼は神官からの仕打ちに耐え、我慢し続けてきた。あの阿呆の見習い神官相手でさえ、冷静さを保ち続け上手く流していた。しかし今回の出来事はダレスの感情を刺激するに十分過ぎるもので、抑えていたモノが爆発する。

「止めるな」

「……わかっている」

 この件で、セインが無残な姿で殺害されようが、ヘルバにとっては自業自得の末の出来事と考える。彼の行動は目に余るものばかりで、ダレスの攻撃を受けなかったことが奇跡に等しい。だが、今回は完全に彼も終わった――そう思うが、だからといって同情心は湧かない。

 もう、遅い。

 こうなってしまえば――

 ヘルバの身体を巨大な影が覆う。今、彼の目の前にいるのは見知った友ではなく、地上最強と呼ばれ恐れられている種族そのもの。本来、彼等の鱗は漆黒の色をしているが、ダレスの身体を覆う鱗は緑柱石(エメラルド)をしている。それは美しくもあったが、同時に神々しさも感じられた。

 あいつが怒ったのは、いつか。

 ふと、ヘルバは友に恐怖を感じていると同時に、妙に冷静な面を持つ自分自身に気付く。ダレスがヘルバと出会ってから、本気で感情を露にしたことは一度もない。だからこれは何十年ぶりといっていいもので、見方を変えれば見下され続けてきた人間への攻撃と捉えていい。

 今、彼が大事に思い好意を抱いている相手を母親と同じように侮辱されるかもしれない状況に、二度目の咆哮が大気を揺らす。こうなってしまえば、何もかもが遅い。積りに積もった感情は一気に爆発し、思い上がった者達に向けられるだろう。これもまた、自業自得といっていい。

(こうなる前に、止めようとしなかったあいつ等が悪い。そして、早く知るべきだった。災いは、近くにあったことを――)

 気付かぬことは幸福ともいうが、この場合は不幸といった方が正しい。いや、災いの種は彼等自身が生み出し、栄養を与え続けた。それは時間と共に成長を果し、おぞましいモノとなって彼等に襲い掛かってくる。齎されるのは、生か死か――愉快な状況に、ヘルバの口許が微かに動いた。