かたん、と物音がした。誰かがオフィスに入ってきた気配。
星野くんもそれに気づいたらしく、腕の力が緩む。胸を押し返して一歩下がった。

「社長…」

星野くんの言葉通り、社長がそこに立っていた。肩の上のおっさんは何とも言えない表情で黙っている。
今日は戻らないって。出張先から自宅に直帰って聞いてたのに、どうして。


「どうしてここに?って顔だな、まどか」

ふ、と鼻で嗤い、私の名前を呼んだ。会社なのに下の名前で。

「陰でこそこそ会ってたのか?隠れなくてもいいだろ?別に悪い事をしている訳じゃない」
「…隠れてる訳じゃ」
「ああ悪い。俺が、邪魔したんだったな」

言い訳なんか聞くつもりはないと遮る冷えた声。見下した視線が痛い。社長は怒っていた。


「邪魔者は退散するよ。ああ、続きをするなら社内じゃなくホテルにでも行ってくれ」


興味なさそうに言い捨てると、背を向け部屋を出ていってしまう。
裏切った訳でもないのに胸が痛い。
社長はどこか傷ついているようにも見えた。
誤解された。
嫌だ。
社長に、変な誤解されたくない。


だって私が好きなのは。




「星野くん、ごめんさい。気持ちは嬉しいけど私、好きな人がいます」

深々と頭を下げて謝ってから、部屋を飛び出した。




「社長!」


長い廊下の向こうに社長が見えた。
すぐ目の前はエレベーターホール。足が速い。

「待って社長!…篤人さん!おっさん、止めて!」

大声で呼び止めながら全力で走った。
ようやく足を止めた社長が「大声で呼ぶな」と叱り、追いついた私をエレベーターに押し込んだ。
黙ったまま地下2階のボタンを押すと、狭い金属の箱が下から持ち上げるような感覚を伴って下へ下へと降りていく。
おっさんはこんな時に限って何も言ってくれない。
年の功でフォローのひとつやふたつしてくれればいいのに。目くばせすると口パクで「あかん。怒ってるで」と分かり切ったことを伝えてきた。

「篤人さん」
「社内だ。名前で呼ぶな。」
「そっちが先に私を呼び捨てしたんです」

短い会話の間に高機能のエレベーターは私たちを地下に運んでしまう。
静かな音とともに扉が開くと、社長は私を無視するみたいに先に降りて駐車場に向かった。


「誤解しないでください。星野くんとは何もありません」

「へえ。何でもないやつと人気のないオフィスで抱き合う趣味でもあるの」

「あれは…不可抗力です。私はそんなつもりないし」

「いいんじゃないの?付き合えば?星野は優秀だしいい奴だ。ああでも、他人と女を兼用するのは趣味じゃないんだ。悪いけど俺との契約がある間はセックスを謹んでもらえるかな」

「付き合いません!」


吐き出すように言い捨ててそのまま愛車に乗り込もうとする社長のスーツの袖を引っ張った。


「ああそう。雇用主に付き合うなって言われたからから付き合わないんだ?」


ようやく振り返った社長はまだこんな事を言う。
ああもう、なんでこんな。


「私は…社長が好きなんです。私が好きなのは社長だから。だから星野くんとは付き合わないんです」