部屋の中は驚く程几帳面に片付けられ、壁一面の本は、まるで本屋か図書館の様に分野別にされていた。

「座って」
半ば強引に座らされた。仕事用のデスクの上にも、一切無駄な物は置かれてなかった。
本棚から彼が一冊を選び出し、私の目の前に置く。

「この本、覚えてる?」
ブルーの表紙。タイトルは見なくても分かった。

「覚えてるよ…」
私と彼が、話すきっかけになった本。

『いつか、本当の自分に出会うまで』
ペラペラと付箋を頼りにページをめくり、手を止める。

「じゃあここ読んで」
指差してる部分の内容は読まなくても覚えていた。

「ダイさん、あの…」
言いたい事が分かった気がして顔を上げた。

(思い切って話そう。その方がいい)
そう判断したのに、彼が止めた。

「黙って」
怒った様な顔してる。私が何も言わなくても、まるで何もかもお見通しの様な感じだった。
一呼吸おいて、彼の口が開く。

「僕が怖い?」
キュッと口を固く閉め、こっちを見てる。その目が鋭かった。
コクン…。
首を縦に振った。短く息を吐いた彼が、強張った表情のまま言った。

「怖くても教えてほしい。夕べ、松中と何があったか」
ドクドクと心臓が大きく鳴りだした。やっぱり気づいてたんだと、確信せずにいられなかった。
なかなか口を開けられない。もしかすると、彼との別れになるんじゃないかと思うと怖かった。

(でも…このまま黙ってたら、ますます誤解される。それだけはヤダ…!)
ギュッと手を握りしめ、覚悟を決めた。顔を上げ、改めて彼を見た。


「夕べ…この部屋から松中さんが出て来て、ダイさんはコンビニに行ってるって聞かされて…」
泣き出すまいと、唇を噛んだ。今、ホントの気持ちを言わなかったら、一生後悔すると思った。

「情けなくて、悔しくて、涙が…出て来て…」
込み上げてくる虚しさ。あの時、自分はダイさんにとって、一体何なんだろうと思った。

「堪えきれなくて…抑えきれなくて…それでなくてもずっと…一人…だったから…」
声のこだまする部屋で、いつもいつも泣いていた。自分だけが彼を好きなような気がして、寂しくてたまらなかった…。

「誰かに甘えたかった…楽に…なりたかった……」
あの一瞬だけで良かった。全てを涙で流したかった。

「だから松中に頼ったって言うのか?」
冷静なダイさんの声が怖かった。でも、事実を間違って受け取って欲しくない。

「違う!あの人は、私を受け止めてくれただけ。でも…」
思い出すだけでもゾッとする。この事を、ダイさんに話すのだけは辛かった…。

「キスされて…」
ピクッ…
ダイさんの身体が揺れた。私の言葉に、明らかにショックを受けたみたいだった。

「抵抗しようにも…身動き取れなくて…」
悪いのは松中さんじゃない。隙を見せた私の方。私は…相手を間違えた…。

「ごめんなさい…私がいけないの…」
何もかも、ダイさんに話さずにきてしまった。甘えてばかりで、彼の考えや本心も聞かずにきてしまった。

「ごめんなさい…ホントに私…バカだった…」
自分の気持ちも押し殺して、我慢ばかりしてた。レイラはあんなに忠告してくれたのに。今になって、取り戻せる訳でもないのに…。

「ごめんなさい…」
彼との未来を続けて行く事が一番の望みだったのに、今の私達は、そこから一番遠い所にいる…。

(ホントに…どうしてこんな事になったんだろう…)
情けなくて、悔し過ぎて、涙しか出てこない。もっと、彼を繋ぎ止める、重要な言葉がある筈なのに…。
泣き崩れまいと、それでも必死に我慢してたように思う。でも、彼の言葉を聞いたら、そうしてられなくなった。

「もう駄目かな。俺達…」
捨て鉢な言い方に耳を疑った。私の側に立ってた彼が背を向けた。

「こんな感じで結婚したって、うまく行く訳ない…」
何かを諦めたように溜め息ついてる。そんな彼を見た。

「美里の事を、もっと見るべきだった…。バカなのは俺の方だ」
信じていたから、私と松中さんを二人だけにした。なのに、それが裏目に出た。
悔しそうに手を握りしめ、こっちを見ようとしない彼に、何一つ、気の利いた言葉をかけられない。

(私は…エッセイストなのに…)
言葉を選んで、育んで、大切にしてきたつもりだった。でも今、傷ついた彼に、投げかける言葉の一つも見当たらない。
喉の奥で、声にならない言葉がしまい込まれていく。

「白紙に戻そう。その方がいい…」
決意したような彼の一言に気が遠くなった。目の前にある彼の背中が遠く感じる。このままホントに終わってしまうのかと思ったら、急に心が拒否した。

「…いや!」
無意識に出たような声だった。でも次第に大きくなった。

「いや…!…やだっ!そんなの ‼︎ 」
ガタン!
立ち上がって彼の手を握った。

「やだ…!そんな事言わないで…‼︎」
初恋は実らないって、誰かが言ってた。でもそんなの、信じずに来た。だって、私には…

「私には…ダイさんしかいないのに…‼︎ 」
ぎゅう…と握りしめた手が冷たかった。まるで、彼の心のようだった。

「白紙になんか戻さないで!私の側にいてっ ‼︎ 」
ワガママだと分かってる。忙しいって分かってる。でも…

「私には…ダイさんしかいないの…貴方がいなくなったら、どうして生きていいか分からない…どうやって歩いて行ったらいいか分からない…一人にしないで ‼︎ 置いてかないで ‼︎ …ダイさん…お願いだから……」
ボロボロ零れ落ちる涙を拭きもせずに頼み込んだ。恥も外聞もない。今の私には、彼しかいない。
振り向いてもくれない彼にしがみついたまま、その場に崩れ落ちた。もう何も、届きもしないのかと悔しくなった。
ぐすぐすと泣いてばかりいる私の肩に、彼の手が乗った。その手の温もりに顔を上げた。

「こんなに泣かせるなんて、俺はホントに自分をバカだと思うよ…」
目に涙が滲んでる。その涙を、指ですくった。

「美里を一人にさせたくなくて、一緒に暮らし始めたのに、結局いつも我慢させてる気がして何も言えなかった…。会社に通うのが大変に感じても、美里が好きなこの場所を、奪っちゃいけない気がしてた。だから極力我慢して、帰れそうな時もわざと帰らないようにして…。帰っても、ミサトが執筆中だから…」
エッセイストの私を誰よりも理解しようとしてくれた。

「でも…ホントに理解しなければならなかったのは…本城美里という女性だったんだよな…なのに俺は…それを忘れてた…」
仕事に忙殺されて、全てを後回しにしてきた結果が今だと彼は語った。

「こんな俺に美里はもったいない。もっと、いい男と結婚した方が幸せになれる…」
うな垂れる彼の言葉に、首を横に振った。

(違う!違う!私が幸せになりたいのは…)

「でも……誰にも渡したくないんだ…美里が好きだから!」
彼の腕が私を抱き寄せた。

「他の誰にも、美里を触れさせたくない!美里は…俺のもんだ…!」
学生の頃、たった一度だけ会った私を、彼はずっと忘れずにいてくれた。再会するまで、何人かの女性と付き合ったけど、いつもどこか違う気がして、うまくいかなかったと話してた。

「美里と出逢って、やっぱりこの女性しかいないと思った。凛とした空気の中に、自分をしっかり持ってる…だから好きになった。だから…結婚したいと思った…。なのに今更…諦められるか…!」
お嬢様学校育ちの、私の上っ面だけを見て好きになったのかと思ってた。

(でも、そうじゃなかったんだ…。ダイさんはちゃんと、私の内面を見てたんだ…)
ギュッ…
彼の背中を掴んだ。この手を、二度と解きたくないと思った。
心の中に、じわじわと温かさが広がっていく…。この感じは初めてだった。

(…もしかして…これは…愛…?)
気持ちが落ち着いてきて、何か満たされてく気がする。
これが愛なら、彼に伝えた方がいい…。
腕を解き、彼を見た。泣いてる彼の顔を手で包み、こう告げた。

「私…ダイさんを愛してるみたいなの…」
変な表現かもしれない。でも、正直な気持ち。それを聞いて、彼の顔が綻んだ。

「俺も…きっと美里を愛してるよ…」
どちらが先に愛を見つけたわけじゃない。私達は、きっと同時にそれを見つけた…。

「放さないで…ずっと側にいたいの…」
もっと素敵な言葉で、彼に愛を告げたいと思った事もあった。でも気がつくと、やっぱり平凡で、ありきたりになった…。

「放さない。だから側にいろ」
初めて聞くダイさんの命令口調。やっと、私達、本当の自分を出し合えたね…。


………ドアを開けるのに、鍵はいらなかった。ただ一歩、勇気を出して踏み出すだけで、ドアは大きく開いていった…。
沢山の光のシャワーが私を包む。今までの衣を脱ぎ捨てて、新しい衣を身に纏う。新たな思いで、新たな装いで、私は歩き始めた…。
本当の自分と出会った、この明るい世界を………