万理央はペットボトルの蓋をぎゅいんと開けて水をあおる。半分程飲んで、自分はこんなに喉が渇いていたなんて、と気付く。何かに夢中になっていると、よくそんな事があった。さぁ、もう一度、今度はあの鍵で一つ目の扉を開けようと思ったとき、テーブルの上に置いた携帯電話がレトロな電話の音を鳴らしながら震え始めた。

 <080-xxxx-xxxx>

 夜の8時。
 こんな時間に掛かってくる登録されていない携帯電話番号に首を傾げながら通話ボタンを押す。
 「もしもし…?」
 「夜分遅くに恐れ入ります。富美出版の、の・せでございます。こちら、小林先生の携帯電話でしょうか?」
 野瀬遥は、「野瀬」と言う部分をゆっくりはっきりと名乗った。万理央の心臓が少し跳ねて声が上ずった。
 「はい。小林です。」
 「小林さん?今日は大変失礼を致しました…」

 平謝りに謝っているけれど、こういう人は何度でも同じような事をするよね、とどこか冷めた気持ちで万理央はその謝罪の電話を受けていた。土曜日の午前中に出社するのでご都合は如何かと訊かれたが、会社員でもないし家族持ちでもない自分に土曜日も日曜日も無いのだと万理央が笑いながら伝えると、野瀬は電話口の向こうで少し口ごもるように薄く笑い、「では、その日に」とあくまでもビジネスライクに言うのだった。
 
 電話を切った後で、昼飯でも誘えば良かったか?と思うのは、野瀬遥に対してまだほんの少しだけ「そんなに悪い人じゃないはずだ」と思う気持ちが残っているからだ。初めて会った日の野瀬遥がまだ万理央の脳裏に鮮明だった。こげ茶色のジャケットを着て、赤い名刺入れから名刺を出した時の『いけ好かない』野瀬遥ですら、万理央の脳裏では簡単に白いTシャツを着て目尻に皺を寄せて笑った野瀬遥になった。噛み切れない肉をくわえて笑った、青空の下で帽子もかぶらずに雀斑顔で笑った、野瀬遥になった。

 万理央はいつも明るくて元気な女の子を好きになる。そして苦労知らずで困ったときにはすぐ泣きついてくるようなタイプの女の子が好きだった。たとえば一つ前の恋でも、それは、つまり一度は万理央の妻になった女性だったが、笑顔が可愛く元気で、時々調子に乗りすぎて失敗することもあった。すると、しょんぼりしてすぐに「向いてない」と言う。それでいて次の日にはもうケロリとしているのだが、また同じような失敗をしてはしょんぼりとするのだった。そしてしょんぼりとする度に万理央に「聞いて~」と事細かにその経緯を話し自分は頑張った、失敗したけど悪くはなかったはずだと訴えるのだった。
 (そういえば…)
 ふたりで借りた家族用のマンションに彼女が帰らなくなった頃、彼女の笑顔は少なくなった。万理央に泣きつかなくなった。どうしてだろう。

 野瀬遥は明るくて元気だ。少し種類が違う気はするし、本当にどんな人物なのかは、バーベキューで少し話した位で分かる訳もないけれど、それでも、彼女の話し方や笑顔のどこかに万理央を惹きつけるような何かがあるらしかった。そして、万理央の頭の中の野瀬遥はやはり、にこやかに笑い、目を伏せ、もう一度笑い、泣いたらどんなふうに頼りないのだろうかと思わせる。白いTシャツの丸い肩が打ち震えるのを想像する。えくぼのできる手が彼女の顔を覆うだろう。その手首を抑えて、彼女の顔を覗き込んだら、彼女はどんな風に泣いているのだろうか。だけれど、万理央の頭の中の野瀬遥は万理央が顔を覗き込むと顔をあげて強気そうな目で万理央を睨むのだった。こげ茶色のジャケットの衿についたピンバッジがきらと光る。赤い革の名刺入れが彼女の手の中で震えているような気がした。

 省エネモードで暗くなった液晶画面に背中を叩かれたように現実に戻り、万理央は携帯電話をテーブルの上に置いた。ペットボトルの水をもう一口飲んで、ゲームを再開する。まだ一本しか持っていない鍵を持ってドアが並ぶお城の一階を走って、確かこのドア、と思うドアの前で鍵を差し込んでみたが、小太りの男は小首を傾げてドアを見あげる。このドアじゃなかったっけ?万理央はもうひとつ隣のドアに鍵を差し込む。小太りの男はまた小首を傾げている。変だな、万理央は小太りの男と一緒に首を傾げ、廊下に並んだドアをジロリと睨みつけた。