寝返りを打とうとしてソファから落ちそうになった大沢は左足で身体を支えようとしてむっつりと何かを踏んだ。
「・・・っ」
「ご・・・ごめっ」
 痛みを訴える唸り声はソファの下で大沢が踏みつけた相手であり、この部屋の主である湖山だった。
「湖山さん、なんで、こんなとこで…」
 左足の置き場を確保して身体を起こした大沢は伸びすぎた前髪が額に掛かるのを煩そうにかき揚げながら低い声でそれこそ唸るような声で疑問符を打った。

 カメラマンをしている二人は昨晩ちょっとした大きな仕事を終えた所だった。最近はアシスタントよりもカメラマンとしての仕事も増えて来ている大沢だったが、湖山のアシスタントの仕事だけは他の誰にも何にも譲りたくないと常々思っている。昨日終えた仕事も、是非大沢にと言われたカメラマンとしての仕事を振って湖山と組んだ仕事だった。
 週に一、二度の休みの他は朝早くから夜遅くまで、スタジオにこもったりロケーション撮りへ出かけたこの数週間は、大沢にとっては願ってもない大事な時間でその仕事が終わってしまったことは至極残念だ。
 二人きりの小さな打上は、だから、「打上げ」という名目でいかにも達成感で一杯な自分を装いながらも、達成感だけではない気持ちが半分以上を占めていて、ともすれば湿っぽくなりそうな自分をアルコールで慰撫しながら鼓舞しながら、楽しげに飲み潰れていく湖山を止めもせずに見ていた。

 酒に弱い湖山は常に頬を赤らめて楽しくなるくらいでソフトドリンクに切り替える事が常だけれど、ごくたまにこんなふうに自身の高ぶる想いに煽られて限界以上の酒を飲んでしまう。それこそデロンデロンに酔っ払った湖山をマンションまで送り届けてこんな時にいつもそうするようにベッドに寝かせると、終電もない自分は湖山の部屋のリビングのソファに横になった。それが昨晩の一時半過ぎ。正直湖山のリビングのソファは大沢には小さいが湖山と同じ部屋に寝るのは躊躇われるし床の上に寝るのもな、と思うのでこうして湖山の部屋に泊まるときにはソファを借りるのだけれど、どういう訳なのか、朝になるとときどき湖山がこうしてソファの下で眠っている事がある。

 グレーのスエットを着た湖山がスエットの上からでも分かる細い太腿を擦りながら身体を起こすと、小さなあくびをひとつして目やにをとるようなしぐさで
「おはよう」
 と言った。彼の細い髪は部屋の中で見ても明るい。朝日を受けた数本の髪が脳天から浮いているのがまるで少年のように無邪気に可愛らしく見えた。この人が自分よりも10歳も年上だとは大沢にはどうしても思えなかった。
「おはよう…ございます。」
 大沢は訝しげな顔のまま答えて湖山から目を逸らすようにぐっと身体を捻ってソファの背を反対の手で握り締めた。ポキポキポキ、と小気味のいい音を立てて大沢の背筋が伸びて幾分スッキリした顔をした大沢は反対側へと身体を捻りながら、もう一度湖山に疑問をぶつけた。
「なんだって夜中にここに移動して来るの?夢遊病?」
「ん?だってさ、俺だけベッドで寝てたらなんか悪ぃなって思うから…」
「あんたの部屋でしょうが。」
「そうだけど。だって、俺が酔っ払うから送ってもらわなきゃいけなくなって、んで…でしょ?」
「好きでやってんだからいいんですよ。」

 さり気なく言ったつもりの言葉が爽やかな朝の光の中の二人の間に浮いて揺れていた。いつからか、こんなありふれた曖昧な言葉がどこか何か意味を持って響くようになった。言った方も、言われた方も、その言葉の深さを測ってしまうから沈黙する。それでも、つとめてさり気なさを装ってなんでもないふりで沈黙を掻き混ぜるように動くのはいつも大沢の方だった。慣れっこだ、こんなこと。ぎゅう、と胸が絞られるような気がするのをほんの少しの間我慢する。眉毛を寄せて、手の汗を握り締めて。

 大沢はぐいっと背伸びをするように身体を伸ばして立ち上がり
「洗面所、借りますね」
と明るい声で言った。

 もうだめだ、と何度も思いながら、どうしてもこの人を置いてくる事が出来ない。大沢は改めてそんなことを思って冷たい水で顔を洗う。「もう駄目だ」とあの夜にも思った。失恋した湖山が前後不覚になるほど呑んだ日。ベッドに横たえたはずの湖山は、朝になるとなぜか大沢の横に寝ていた。そしておはようも言わずに大沢を揺らしながら「ホットケーキを食べよう」と言った。
 鏡の中の自分を見つめると、洗面所の扉に寄りかかった湖山が見えた。鏡越しに目が合って大沢は「お先に」とできるだけ元気よく言って、タオル掛けのタオルで顔を拭った。洗面所の出入り口ですれ違う瞬間に鳴った大沢の鼓動は、湖山に聴こえただろうか?どうか、聴こえませんように。どうか、聴こえていますように。そのどちらともを同じくらい真剣に祈る。

(ホットケーキか。)
 大沢は台所の棚のあちこちを開けながら小麦粉を捜していた。湖山は料理にマメなほうではないからあの小麦粉が必ずどこかにあるはずで、それも多分、あの時大沢がしまったとおりにどこかにあるはずで…。あの時どこにしまったっけ?と大沢は記憶をあちこちひっくり返す。
(あった!)
 口を三つ四つ追った紙の小麦粉の袋は少し粉っぽい。冷蔵庫を開けて玉子と牛乳を出す。小麦粉って賞味期限あるのかな…。袋のあちこちを確認してみるがよく分からない。

「何やってんの?」
「小麦粉って賞味期限あるの?」
「そういや、どうなんだろうね。」
「これ、いつのだっけ?」
「うーん・・・。一年、位前?」
「ヤバイと思う?」
「やばくないんじゃね?匂いとかどう?」
「よく分かんない」
「・・・」

 小麦粉の袋とお互いを見比べながら二人はそっと何かを同時に企んだようにニヤリと笑った。
「腹壊したら…」
 大沢が問いかけると、
「仕事、休めばいい。」
 と湖山は躊躇いもなく言う。
「一緒に?」
 大沢は試すように訊ねる。
「うん。そう。一緒に。」
 湖山はやはり躊躇いもなくそう言った。