「人は何の為に生きているんだろう」
 
 そんな暗い夜空を、意思も無く飛んでいる凧のような思考の塊が頭の中を漂っていて、
 仕事が全く手につかない。
 何時間も前から画面に映し出されている新規プロジェクトの設計書は、
 相手をしてもらえず、駄々をこねた子供のようにこちらをじっと睨んでいる。
 ふと窓の外に目をやると、梅雨という名の雨で埋め尽くされていた。
 まるで誰かの為に、ひっそりと灰色の涙で泣いているようだった。
 妻に秘められていた思いを知ったのは今年の1月だった。
 「好きかどうか分からない……」
 
 意味が分からなかった。
 正確には、分かろうとすることを、体が反射的に拒絶していた。
 きっかけはいつもの些細な喧嘩だった。
 でも、いつもと違う違和感がそこにはあった。
 
 最近、妻の様子がおかしいことは薄々気づいていた。
 でもそれはちょっと機嫌が悪い。虫の居所が悪いだけと多寡をくくっていた。
 
 「今なんて言ったの……?」
 「……」
 
 「好きかどうか分からない……」
 もう理解するしかなかった。
 いくら拒否しても、拒絶しても、呑み込まないと状況は進まなかった。
 彼女として5年間、結婚して1年半。
 
 6年半生活を共にして導きだされた答えがそれだった。
 「なんでそんなこと……昨日まで普通に話して……笑って、冗談言って……」
 「前から言おうと思ってたの。いつかは言わなきゃいけないと思ってたの……」
 妻の目は、もう手遅れであることを物語っていた。
 覚悟が決まっている。
 こうなってしまったら、もうどうすることもできない。
 部屋の隅にある何かをじっと見定めたその目の意味は、
 長い時間生活を共にしたことで知っていた。
 「一緒にいることが苦痛なの。
  一緒の部屋で空気を吸うことも……、
  しゃべることも……、
  あなたの姿を見ることも嫌なの……
  ただ……息苦しいの……」
 妻はそれだけを言い放ち、まるでこの場に存在しない人間を装うように、
 黙りこんでしまった。
 耳鳴りが聞こえてしまうような沈黙の後、
 ようやくすれ違いの始まりをゆっくりと紐解いてくれた。
 それは薄い桜色のような新婚生活が始まって、1カ月経ったある日のことだった。
 徐に小刻みに震える携帯をスーツのポケットから取り出すと、そこにはただ一言
 「お父さんが倒れたから病院に行くね」
 
 と書いてあった。
 夕方の忙しい時間であることが起因して、
 明らかに「機嫌が悪い」と額に書いてある上司に事情を説明し、
 急いで病院に駆けつけた。
 タクシーで病院に向かう車中、不安の波が何度も押し寄せては、
 最悪のシナリオを語って引いていった。
 
 自分が波に呑まれて押し潰されてしまいそうだった。
 
 不安という名の海水が、呼吸をすることを許さないかのように体を包みこみ、
 そして溺れていく……。
 物心がついてから初めて迎える「死」との対面だった。
 「くも膜下出血みたいなの……」
 頭蓋骨の半分が外され、頭の半分が包帯で覆われている義理の父を横目に、
 義理の母は今にも切れてしまいそうな細い糸のような声で教えてくれた。
 「私しばらくお母さんに付き添うから、家には帰れそうもない……」
 病室には心電図の音と、遠くで話す看護婦の声だけが響いていた。
 
 今はまだ余談を許さない状況で、24時間看病が必要だった。
 その状況は誰が見ても一目瞭然だった。
 「分かった。何かできることがあったらおれも協力するから。何でも言って」
 妻の実家に一度戻り、着替えや入院に必要な品々を揃え、また病院に戻った。
 後にも先にも、その運転手を務めることが、唯一協力できたことだった。
 義理の父が入院してから1週間が過ぎ、義理の父は一命を取り留めていた。
 医者もその結果を簡単に「奇跡」という言葉で片付けつつも、驚いていた。
 そろそろ妻も家に帰ってくると思っていたが、妻は帰ってこなかった。
 妻の実家と2人が住んでいた家は車で15分の距離だった。
 夜だけでも帰ってきて欲しかった。
 まだ自分が妻の中で一番でいたかった。
 単純に子供だったのだ。
 それは弟に対して優しく接する母親に対する求愛と同じだった。
 「なんで帰ってこないの? もうお父さんは一般病棟に移れたし、
  夜の付き添いもいらないでしょ?」
 「まだお母さんと一緒に居てあげたいの」
 「夜だけでも帰って来れない?」
 「ちょっと無理かな……」
 「新婚なのに……」
 その時思わず口から出てしまった。
 口の中で遊んでいた飴玉がふと口から逃げ出したかのように……。
 その一言が自分のこの後の人生を大きく左右するとも知らず。
 「じゃあもう帰ってこなくていいよ」
 
 それだけを言い残して電話を切った。
 怒りでも、悲しみでも、きっかけは何でもよかった。
 ただこっちを振り向いて欲しいだけだった。
 「実はあの時、帰って来なくていいって言われて、
  私この人とやっていけないかもしれないと思ったの」
 自分でもその一言は覚えていた。
 ただの悪戯心で言ってしまった一言。
 たった一言がこんなにも大きな力を持つことがあり、その一言は、
 後に何千もの言葉で陳謝しても取り消すことはできない。
 妻の中で一年もの間その違和感が、誰も見ていない中庭に舞い降りる落ち葉のように、
 音も立てずに降り積もっていたのだ。
 火を放たれて暴れるように燃える日をじっと待つかのように。
 その日以来、妻の顔から笑顔が消えた。
 帰りも遅く、家に帰りたくないという間接的な意思表示を示していた。
 「しばらく距離を置く時間をください」
 とだけ言い残し、妻は出て行った。
 それから1カ月、いるはずもない妻との生活が始まった。
 それまで気づいていなかったが、妻は生活の至る所に存在していた。
 家に帰宅しても部屋には暗闇だけが佇んでいて、妻の影だけが生活していた。
 朝起きて横を見てもやはり誰もいない。
 今まで一度も妻がいなくなることを想像していない分、そのショックは大きく、
 夢であることを祈りながら毎日眠りについた。
 たまにする電話もいい返事を聞けることはなかった。
 「もう少し時間が欲しいの……焦って答えを出してもよくないと思うし……
  まだ答えが出せない……」
 そんなやりとりを1カ月ただ繰り返すだけで、進展は何も無かった。
 「1カ月間離れていても結局結論は出てないし、また一緒に暮らしてみたら、
  分かることもあるんじゃないの? 
  少なくともおれはあなたが至るところに存在していることは分かったよ……
  そしてとてつもなく必要としていることも……」
 そんないつも通りの苦し紛れの説得と、自分の思慮が欠けた発言に対して詫びた結果、
 妻は何も無かったかのように帰ってきた。
 私は、妻が帰ってくることを手放しで喜んでしまった……。
 それは寂しさという実をより成長させるだけの栄養剤とは知らず……。