デパートの休憩室で、杏奈はコンビニで買ってきたサンドイッチをビニール袋ごと、ゴミ箱に投げ捨てた。


昼食用に買ったものだが、一切れの半分も食べられなかった。


固形物を摂ると吐いてしまう。

胃の中にいれることが出来るのは、果物のジュースだけだった。
明らかに悪阻であると、杏奈にも分かった。

こんな体調で接客するのは、本当に辛かった。


32歳の店長は杏奈の不調を心配してくれたが、決して甘やかしはしなかった。

「チークを濃いめに入れて。
そんな青白い顔だとお客が来ないわ。」
彼女は杏奈に言った。

杏奈に洋服のアドバイスを求める客は多数いる。

そんな客が来るたびに杏奈は笑顔を振りまき、客の為にあれこれ洋服を選び出した。

仕事が終わると、杏奈は更衣室で折りたたみ椅子に座り、しばらく動けなかった。

とにかく疲れてしまう。

匂いにも敏感で、香水や食べ物の匂いを嗅ぐだけで吐き気がした。
ずっとジュースで過ごした。


杏奈のいるフロアには子供服も取り扱うショップが幾つかはいっていた。

杏奈の店の前の通路もよくベビーカーを押した子供連れの家族が通った。


杏奈の目は、若い夫婦が押すベビーカーに寝かされた赤ん坊に釘付けになる。

ふわふわしたクリーム色のベビー服を着せられた赤ん坊はあどけない顔をして、自分の拳を舐めていた。

その無垢な瞳に杏奈は思う。

(やっぱり、麻人に言おうか…)

そう思った次の瞬間、杏奈はその考えを打ち消した。

自分から別れようと言い出した事だ。

麻人はきっと変わらない。

そう思い、決断した別れだ。




「有り難うございましたー。」

杏奈は客に品物の入った紙袋を手渡し、頭を下げた。

急いで店のレジに戻り、その横に置いた緑のキャップのミントのスプレーを手に取る。

客がいないのを確認してから、杏奈はそれを左手首の内側にかけた。

その匂いを嗅ぐ。

ミントの香りで一時的に気持ち悪さから開放されることが、昨日偶然わかった。

そのスプレーは以前、店長から貰った北海道土産でずっとロッカーに置いたままにしていた。

杏奈は手首の匂いを嗅ぎながら、仕事をした。

店長は未婚だったが、
「杏奈ちゃん、もしかして、出来たんじゃない?」
と冗談ぽく図星をついた。

「違いますよー別れたばっかで全然してないのに、出来るわけないですよー。」

杏奈も冗談ぽくかわした。


明日はデパートの定休日だから、杏奈は産婦人科に行くつもりだった。

結果はわかっていても、これからどうするか具体的に決めなければならなかった。



仕事が終わり、電車に乗った杏奈は携帯に母・萌子からメールが来ていることに気がついた。

[うちにあった五十万がなくなった。
和也の通帳もない。
和也と連絡が取れない。
和也が持ち出したのかもしれない。]


杏奈は腕時計を見る。

時刻は午後9時だった。