目が覚めた時、部屋の中はとても冷えていて全身が寒さに耐えようとしているにも関わらず、額には汗がつたっていた。軽く汗を拭き取ってから洗面所へと向かい鏡の前に立つ。いつの間にか迎えてしまった朝に体が順応するまで、まだ少し時間がかかりそうだ。そういう訳で、朝からゆっくりと入浴をしようと湯船にお湯を張ることにした。

 それにしても不思議な夢だった。結局匠真の横でブランコに乗っていたあの人が誰だったのか分からないまま目覚めてしまった。あの人は一体誰だったのだろうか。思い出そうとすると頭が痛くなる。
 もうあまり考えないようにしよう。本格的に就活が始まってから、ただでさえ毎日が憂鬱なのに、昨日でさらに憂鬱さが増した気がする。それもこれも全部あの飯村という学生に会ったせいだ。私は独り言にしては大きな声で「あーもう最悪」と口に出してから、浴槽へと繋がるドアを開いた。

 今日は朝から夕方までバイトが入っている。今年が勤め始めて三年目になるそこは、個人経営の小さな喫茶店で、店主も店の雰囲気も私は大好きだった。憂鬱な日々にほんの少しの希望を与えてくれるような場所で、毎月稼ぎすぎに注意しながらもギリギリのラインまで働かせてもらっていた。ところが、「琴音ちゃんは就職活動もあるし、あんまりシフト入れないようにするね」という優しさに溢れた言葉と共に、私のシフトは今年に入ってからめっきりと減り、今日は実に一週間振りの出勤となった。
 一応ここでの私は夢に向かって頑張る就活生である。というのも、お店の人たちに無駄な心配をかけるのが嫌で、将来に前向きな若者を演じ続けているのだ。今日も常連客からの「就活頑張るんだよ」という声に笑顔で対応していこう。そう意気込みながら制服に着替えて、「いらっしゃいませ」と爽やかに言って店内へと出向く。

 日曜日というのはいつも賑わっていて、一日が過ぎるのがあっという間なのだけど、今日はいつもよりも少し落ち着いているように感じた。ここは個人経営とはいっても、今の店主の祖父から続く老舗で、三代目となった今でも根強い人気の残る店である。
 古くからの常連客が多く、私のような若者は滅多に来店しないのだけど、店内を見渡してみると、今日は一番奥の席に一人、若い男性が座って本を読んでいるのが見えた。大学生だろうか、勉強をしているようにも見えるその男性の後ろ姿にどこか見覚えがある気がするけど、どうも思い出せない。

「琴音ちゃん、一番テーブルのお客さん注文まだだから、お願いしてもいい?」

 コーヒーを淹れていた店主からの言葉で我に返り、「はい、分かりました」と元気よく返事をして奥の席へと向かった。
 私の気配に気づくとその男性は読んでいた本を閉じながら一度咳払いをした。

「ご注文はお決まりですか?」

 決められた台詞を並べた私の目に映ったその人は、今一番会いたくなくて、でも本当は一番会いたい人だった。もうこの人のことを『知らない人』とは言えない私がいる。

「飯村君……だよね。昨日藤山先生から聞いて——あの、えっと……昨日はその、すみませんでした」

 私が一気に話すと、彼は「ははっ」と吹き出して笑顔を見せた。笑った顔まで匠真とそっくりだと思ってしまう自分を抑えながら、私も少しだけ笑ってみせた。

「はい、飯村です。あー良かった。また昨日みたいに逃げられるかと思った」

 少し皮肉じみた言い方だったけれど、彼の表情から嫌味は感じられなかった。むしろ嬉しそうに見えるのは、私の思い込みだろうか。

「本当にごめんなさい。——実は、私の幼馴染に似ていて、それで」

「あー俺のこと『たくま』って呼んでたもんね。正直あれには驚いた。突然自分の名前呼ばれたから。それで咄嗟に誰ですかとか言ってしまって……なんか俺、態度悪かったよね。こちらこそすいませんでした」

 そう言って彼は座ったまま私に深々と頭を下げた。私もこうやって匠真に深く頭を下げたことがあったっけ。初めて会ったあの肌寒い日、私の威勢の良さに圧倒された匠真が半歩下がったあの日だ。あれから十二年経った現在(いま)、私は別のたくま(・・・)に頭を下げられている。人生というのは、生きていれば不思議なことが起こるものだ。

「あの、名前、飯村たくまっていうの?」

「うん。巨匠の『匠』に真実の『真』。幼馴染の彼はどんな漢字?」

「同じです」

 別人だと頭では分かってるのに、それを聞いた私の心臓は一気に心拍数を上げた。

 偶然なのか必然なのか、運命なのか。いや、もしかすると神様がくれた奇跡なのかもしれない。とにかく私はこの人に興味が湧いた。


 飯村匠真。——君の正体が、知りたい。