「ドレスは着るのも大変ですが、脱ぐのも大変なのですね……」

 ウォルフォード邸に到着したステラは、使用人に手伝ってもらい、ドレスから普段着に着替えた。
 窮屈だったコルセットを緩められた瞬間には思わず吐息がこぼれ、使用人の女性達が笑う。

「こんなドレスを着て笑顔で踊れなんて、貴族というものは大変ですよね」

 同じくらいの年頃の女性がそう言ってくれたおかげで、かなり気が楽になる。
 貴族ではない上に親し気な態度なのだから、ありがたいばかりだ。

 その後は女性達と話をしながらドレスを脱いで、結った髪を解く。
 屋敷を訪れた時と同じ格好に戻る頃には、すっかり疲れ切って椅子に座ったままため息をついていた。

「今日はお疲れでしょう。紅茶をご用意しますので、少しお待ちくださいませ」
「いいえ、そんな。ご迷惑をおかけするわけにはいきません。すぐにお暇しますから」

「少し休んでから帰すよう、旦那様からも指示されておりますので」
 そう言うと、使用人達は笑顔で退室してしまった。

 グレンの指示だというのなら、ここで無理に帰っては彼女達にも迷惑が掛かる。
 馬車で送ってくれると言っていたし、紅茶を飲むくらいの時間なら問題ないだろう。

 ステラは椅子から立ち上がると、そのままバルコニーに出る。
 髪を揺らす夜風はひんやりとして気持ちが良くて、目を閉じると深く息を吐く。
 澄んだ星空をぼんやりと眺めていると、にゃーんという可愛らしい声が耳に届いた。

 庭に猫でもいるのだろうか。
 それにしては声が近い気がする。

 きょろきょろと辺りを見回すと、バルコニーと部屋の境界にちょこんと座った黒猫がいた。
 その姿を見たステラは知らず、息をのんだ。


「……可愛い」

 真っ黒な毛は夜の闇よりも深く、黒猫にしては珍しく赤い瞳をしている。
 ウォルフォード邸で飼われているのか、それともどこからか迷い込んだのか。

 何にしても、とりあえずひと撫でしたくなる素晴らしいモフモフ具合である。
 ステラは恐怖感を与えないようにその場にしゃがんで、視線を低くした。

「猫さん、おいで」

 そう言って手を差し出すと、黒猫は暫し考えた様子だったが、やがてとことこと近寄ってきた。
 足元までやってきた黒猫は、愛らしい瞳でステラを見上げる。

 もはや、ぬいぐるみ。
 ただの天使――。

 本能に逆らえずにそのまま頭に触れるが、黒猫はおとなしく撫でられている。


「人慣れしているし、お屋敷で飼われているのでしょうか」
 となると、少し踏み込んだ接触も可能かもしれない。
 欲望を押さえられずに黒猫を抱き上げると、一瞬力が入ったものの、やはりされるがままだ。

 なんという、ラッキーモフモフ。
 ステラは黒猫を抱っこすると、何度もその毛を撫でる。

 ふわふわと柔らかい手触りの毛は、絹糸のように滑らかに輝きを放つ。
 あまりの艶に毛というよりも宝石のように見える美しさに、うっとりと見惚れてしまう。

 日頃乏しい毛髪の男性ばかり相手にしているせいか、モフモフとした豊かな毛に惹かれて仕方がない。
 もともと好きだったこともあり、今や猫は可愛くもありがたい至高の存在だ。

「駄目です。我慢できません。――失礼」

 一応の礼儀として一声かけると、ステラはその背中の毛に顔をうずめる。
 顔中ふわふわモフモフに包まれながら深呼吸すると、お日様の匂いがステラの鼻を幸せに導いた。
 
「はあ……可愛い。気持ちいい。尊い。幸せです……」

 心ゆくまで撫でたり顔をうずめているが、やはり黒猫はじっとして動かない。
 相当人に慣れているし、撫でられるのが好きなのだろう。

「私、このお屋敷で一年間働く予定なのです。よろしくお願いしますね」
 今更ながら挨拶をすると、黒猫の耳がピクリと動き、赤い瞳がステラに向けられた。

「本当に綺麗な目ですね、美人な猫さん。撫でさせてくれてありがとうございます。……おかげで、ちょっと疲れも取れました」

 窮屈なドレスに初めての夜会、不躾な眼差しに晒され、嫌味を言われる。
 予想通りとはいえ、疲労するのは仕方がなかった。


「ステラ様? こちらにおいでですか? ――その猫、は」
 先ほどの女性がバルコニーに顔を出すと、ステラの腕の中の黒猫を見て表情を変えた。

「お屋敷で飼っている猫ですか? とても可愛いですね」
「え? いえ、その、はい。それよりも、紅茶の用意が出来ましたので、どうぞ」

「ありがとうございます。……この子は、どうしたらいいでしょうか」
「では、不埒な猫は私が預かります」
「不埒?」

 よくわからないが、このまま外に出していては寒いだろう。
 女性に猫を手渡すと、そのまま室内に入って紅茶をいただく。

 背後で「どういうおつもりですか」と女性が猫に詰め寄っていたが、バルコニーに出たのがそんなに問題だったのだろうか。

 確かに、室内飼いの猫ならば外に出れば足が汚れるだろうし、心配するのも無理はない。
 どうやら大事にされているようだし、いずれ住み込みで働く際にも、たまには撫でさせてもらえるかもしれない。

 楽しみが出来たことで微笑みながら紅茶を飲んでいると、黒猫を小脇に抱えた女性が何故か頭を下げてきた。


「ステラ様。私は旦那様の乳兄妹のシャーリーと申します。何かあれば、遠慮なく申し付けてください。旦那様と言えど、問題行動があれば鉄槌を食らわせますので」
 急な報告からの謎の提案に、ステラは目を瞬かせる。

「ええと。……多少、ひとめぼれ設定がやりすぎな気もしますが、今のところ問題行動はありませんので大丈夫です。お気遣い、ありがとうございます」

「そうですか、わかりました。では、私は不埒な猫を片付けてまいります。馬車の用意が出来ましたらお声を掛けますので、ゆっくりとおくつろぎください」

「は、はい」
 片付けるって何だろうと気にはなったが、シャーリーの笑顔で何も言えなくなり、そのまま見送る。

 何にしても、今日は一日疲れた。
 ステラは大きなため息をつくと、いい香りの紅茶にそっと口をつけた。