「いつもお仕事お疲れさまです。入館証をお願いします」

「あら。今日は違う男性をお連れですか」
 王立図書館の受付兼司書である女性は、そう言うと蔑みをまったく隠すことのない笑みをステラに向けた。

 この栗色の髪の女性は、何人かいる司書の中でも、特にステラのことを嫌っている。
 個人的にどう思われようと一向にかまわないが、それを仕事中に出すのはいかがなものか。

「本来、あなたのような人間はここに入る権利すら持ちません。毎度毎度、男性をたぶらかして恥ずかしくないのでしょうか」
「いつもお仕事お疲れさまです。入館証をお願いします」

 互いに笑顔だが、司書の笑みは最初から口元が引きつっている。
 本当なら会話せずにさっさと中に入りたいのだが、面倒なことに彼女から入館許可証を受け取らないと勝手に侵入したという扱いにされてしまう。

 一度、面倒で無視して中に入って行った時には、衛兵まで呼ばれて大変だった。
 公爵が同行していなかったら、ステラは牢に入れられていたことだろう。
 許可証を渡さなかったのは司書なのだから理不尽ではあるが、仕方がない。

 以来、一応にこやかに会話をしているのだが、この司書は嫌味を言うか喧嘩を売ってくるしかないので、面倒くさい。
 無視すると入館証をくれないし、嫌味に文句を言うと話が長くなるし、喧嘩を買うとその日の調べ物は諦めなければならなくなる。

 あまりにも長く絡まれていると、『ツンドラの女神』の力が影響しかねない。
 一通りの対応を試した結果、笑顔で挨拶が一番有効という結論に至ったのだ。

「本当に厚かましいですね。……毒婦が」
「いつもお仕事お疲れさまです。入館証をお願いします」

 ついに笑みが崩れた司書に微笑みながらステラが返答していると、遅れてやってきたグレンが隣に並んだ。


「……毒婦とは、どういう意味だ」
「――ウォルフォード伯爵? これは、失礼致しました」

 まっとうな貴族男性が来た瞬間に姿勢を正した司書は、ステラには見せたこともない柔らかい笑みを浮かべた。

「ステラは俺の婚約者だが」
「婚約……? この女が、ですか? 何かの間違いでは」
 お手本のような侮蔑の視線をステラに送る司書に、グレンはため息をついた。

「俺の最愛の人を侮辱するなら、放っておくわけにはいかないな」
 そう言いながら、グレンの手はステラの肩を引き寄せる。

 どうやらまた庇ってくれている……いや、自身の妻となる存在の悪評を和らげようとしているようだ。
 美貌の伯爵が微笑めば女性達は信じるし、眉を顰めればそれに反応する。
 こうしてみると、美青年が女性に与える影響は凄まじいものだ。

 ……それにしても、この謎の芝居の間、ステラはどんな顔をしているのが正解なのだろうか。

「いえ。侮辱など、誤解です。申し訳ありません、ウォルフォード伯爵」
 グレンの視線に、司書は慌てて頭を下げる。

 はたから見れば貴族の権力に萎縮するか弱い女性だが、そういう人間ではないとわかっているので、見ているステラも気が楽だ。

「いつもお仕事お疲れさまです。入館証をお願いします」
 今度こそステラの言葉を無視するわけにはいかなくなった司書は、グレンに聞こえないように舌打ちすると、取り繕った笑みで入館証を差し出した。

「いつもお仕事お疲れさまです。入館証をありがとうございます」
 素早くそれを受け取ると、あえて大声で礼を言う。
 勝手に入館証を持って行ったと騒がれたことがあるので、その対策だ。

 グレンを従える形でどんどん奥に進むと、入口からは見えない机に鞄を置き、息を吐いた。


「ありがとうございました。……ですが、毎度あの調子で対応するのはどうなのでしょう。一年後のグレン様のためにも、あまり大袈裟な演技は控えた方がよろしいのでは」

 心配になって提案してみると、何故かグレンは驚いたように目を見開いている。
 紅玉(ルビー)の瞳は今日も美しいが、そんなにびっくりするようなことがあったのだろうか。

「いや……俺のためというのは?」
「一年経って離婚した後に、私のような女を『最愛の人』と呼んでいたことは人生の汚点になりますよね?」

 妻にしてしまうのだから手遅れ感はあるが、そこはもう一時の気の迷いということにするしかない。
 本人もひとめぼれで押し通すと言っていたから、冷静ではなかったと言えば問題ないだろう。

 幸い、男性の離婚歴は女性ほど問題視されないし、グレンの美貌なら女性達も気にしないはずだ。
 だが、あえてその傷を深める必要もないと思うのだが。

「ステラは……俺にそういう言葉を言われたり、接触しても、何ともないんだな」
 何ともないというのは何だろうと首を傾げて考えると、その答えらしきものが閃いた。

「もしかして、グレン様の美貌に対する賛辞が足りないということでしょうか? 失礼致しました」
 これだけの美青年なのだから、ああいう言動や行動をすればもっと反応があってしかるべきということだろう。

 これはステラの配慮が足りなかった。
 顧客の求めるものを察するのも、魔女の仕事のひとつ。
 まだまだ修行が足りない。

「期待されるような反応をできず大変に心苦しいのですが、これは私の乙女心が消えているせいなのでお気になさらず。グレン様は麗しく格好良いので、どうぞご安心なさってください!」

 非礼を詫びる意味も込めて元気に宣言すると、グレンは何度も瞬き、そしてゆっくりとうなずいた。


「さて、それでは。……グレン様は、すぐにお帰りになりますか?」
「いや。……どうせ予定もないから、付き合える」

 ため息と共に椅子に腰かけるグレンを見たステラは、安心して本を探し始める。
 席に戻ると鞄の中からノートを取り出し、ひたすら文字を書き綴り、絵を模写する。
 本一冊分を書き終えて顔を上げると、グレンが驚いたようにステラを見ていた。

「……早いな」
「必要に迫られましたので、それなりの速度ですが……やはり、美しい文字とは言えませんね」

 ステラはペンを置くと、立ち上がって本を片付ける。
 キリもいいし、あまり長くなってはグレンにも迷惑だろう。
 グレンと共に受付に向かうと、司書に入館証を差し出した。


「お仕事お疲れさまです。入館証をありがとうございました」
「そこで待ってください。今、確認していますから。本がなくなっていると困ります」
 ステラが盗んだかのような物言いに、グレンの眉間に皺が寄る。

「それから、そのノートは何ですか? 貴族でもないあなたに、写本の権利はありません」
 司書はそう言うと、ステラが抱えていたノートを奪い取った。

「王立図書館規則第三章第五項に、自分の勉学のための写本は可能と書いてありますが」
「平民の部外者が偉そうなことを言わないでください」

「貴族の婚約者も自由に閲覧、貸出できるはずだが。禁書でもないのに写本禁止など聞いたこともない」
 それまでは偉そうに上から目線だった司書も、グレンの言葉に表情が曇り始める。

「ですが、まだ平民ですよね」
「……それで、何故ステラのノートを奪い取る?」
「ですから、写本は」
 引きつった笑みを浮かべる司書に、グレンは盛大なため息をつく。

「仮に君の言う規則があってノートを奪い取る権利があったとしよう。だが、それはステラが平民である前提のようだ。正式に婚約、婚姻した後には……もちろん、すべて返却するんだろうな?」
 言葉に詰まった司書を見ると、グレンはもう一度ため息をついた。

「今後、同じようなことがあるなら、館長に直訴するとしよう」
「そ、それは!」

 さすがに王立図書館の最高責任者に出て来られると困るらしく、司書の顔があっという間に青ざめる。
 またしても横暴な貴族と震える女性の構図だが、今回もまったく同情に値しない。


「お仕事お疲れさまです。次回もよろしくお願いいたします」

 ステラがにこりと微笑むと、司書は唇を噛みしめながら俯いた。