家を出て一人になったものの、まだ気持ちは落ち着かない。それもそうだ。春希も、稜輔も千秋も突き放してきてしまった。勢いで出てきてしまったので何も持っていない。かといって帰りたくはない。つくづく、自分は無計画で感情的だと思った。
「竜、何してるの?」
 下を向いて歩いていたので、気づかなかったが大きな荷物を持った郁留が前方から近づいてきた。
「今日、話し合いに本家を使うからって追い出されたから、外に出るついでに病院に兄さんの着替えを持って行こうと思って」
 郁留の兄、伸之輔は胃潰瘍で入院している。一週間の入院だと聞いていたが、もう退院予定はとっくに過ぎている。
「まだ入院してるの?」
「手術するんだって。だから、退院はあと一ヶ月延びたよ」
 そんなに容態が悪かったとは知らなかった。そういえば、盗み聞きした話し合いで辛そうだと言っていた。相当ストレスがかかっていたのだろう。どうして無理なんてするのだろう。嫌だったのなら辞めればいいのに。いや、辞められなかったのかもしれない。稜輔に引き継がないといけないから。
「話し合い、もう終わったみたいだから帰れるよ」
 竜は郁留の横を通りすぎ、前に進む。
「おい、大丈夫か?」
「うん」
 振り返らずに返事をすると、郁留は怪訝な顔をして竜の背中を見送った。







 それにしても、やっぱり行くところがない。お金も持ってきてない。お腹がすいてきた。
 近くの公園に寄り、足を投げ出してベンチに腰かけた。背もたれに体重を預けて空を眺めた。誰もいなくて、静かだ。近くの草むらから虫の鳴き声が聞こえてくる。久しぶりに一人になった気がする。一人になりたかったはずなのに、なんだか寂しい。自分は寂しがりだったのか。今まで寂しくなかったから気がつかなかった。親がいなくなっても、家に誰も帰ってこなくても、春希が来てくれていたから。
「おーい」
 話しかけられて、ガバッと起き上がると、渚が手を振って駆け寄ってきた。
「なんだ、渚か」
「春希ちゃんかと思ったんでしょ。俺で悪かったね」
「いや、渚でよかった」
「え?何?ちょっと照れる」
 照れると言いつつも困惑気味に笑う渚。
「おつかい行ってたんだ。家、すぐそこだから、ちょっとトイレットペーパー持ってよ」
 渚は右手にレジ袋、左手にトイレットペーパーを持っていた。両手が塞がっていて大変そうだ。
「重くて疲れた。アイス食べようよ」
「今、お金持ってない」
「なんで何も持ってないの?じゃあ、荷物持ちのお礼に奢るよ」
 渚は竜の意見を聞かずに自分のやりたいことを押し付けてくる。稜輔や千秋と真反対の対応に少し安心した。渚は人に気を使わせない。人を丁度よく楽な気持ちにさせるのが上手い。
 渚の家に着くまでにアイスクリームの屋台があった。渚はバニラを注文したので同じものを頼んだ。ちょうどお腹がすいていたので甘い物が美味しい。
「着くまでに食べきってね。見つかったら文句言われるから」
 渚の住居は団地のアパートだ。階段を三階まで登り、重い鉄製のドアを開けて部屋に入った。
「ただいま」
「遅いよ、トイレットペーパー」
 渚にそっくりな女性がトイレットペーパーを求めて近づいてきた。しかし、持っていたのが竜だったので、女性は苦笑いを浮かべ、渚の頭を叩いた。
「痛いよ、姉ちゃん」
「お客さんに荷物を持たせるな!」
 渚の姉は、竜の方に向き直り、ごめんねと気まずそうに謝ってトイレットペーパーを受け取った。
「渚の友達?いらっしゃい」
 奥から渚の母親が竜に挨拶をしに出てきた。渚とそっくりだ。招かれ慣れてない竜はぎこちなく、おじゃましますと会釈をした。母親の後ろから幼稚園児くらいの女の子が顔を覗かせた。この子も渚とそっくりだ。
「みんな似てるな」
「よく言われる」
 渚の妹は、二、三回一緒にテレビゲームで遊ぶとすぐになついてきた。竜の膝に座ったり、肩に上ろうとしてきたりする。その度に、母親や姉に注意されている。
「竜君、ご飯食べるでしょ?」
 渚の母親が夕食の準備を始めている。外を見ると日が落ちて暗くなっていた。帰らないといけないのかと思うと、嫌な気持ちがよみがえってくる。
「ついでに泊まりなよ。明日も休みだし」
「いいの?」
「だってもう暗いじゃない」
 食卓には当然のように竜用の箸と皿が並べられていく。白ご飯が大盛で入っていた。
「着替え、貸してあげなさいね。布団は押し入れに入れっぱなしだけど、湿ってないかしら」
 渚の母親は、竜が泊まる前提で話を進める。せっかちな性格なのだろうか。稜輔と千秋には泊まるとは言っていないが、帰ったところで同じ気持ちがわいてくるだけだろう。心配かけついでに、お言葉に甘えて泊まらせてもらおうか。
 夕食の準備をしていると、ピンポンとインターフォンが鳴った。手が離せない母親の代わりに渚が出ると、息を切らした郁留がいた。部屋の奥にいた竜の姿を見つけると、ほっと肩を落としている。
「お母さん、お泊まりもう一人増えた」
 渚が勝手に郁留を泊めることにした。郁留は驚いて渚を二度見する。母親は、また当たり前のように郁留の分の箸と皿を出し、白ご飯を大盛りによそった。竜は困惑も困惑な郁留の様子が可笑しくて、思わず吹き出した。
 大皿に盛られたジューシーな唐揚げは、食べても食べても継ぎ足されていく。胃がはち切れそうになるまで食べてしまって苦しい。渚の母親は加減が分からず、ついたくさん作ってしまったらしい。
 渚の妹は、郁留にもなつき、竜の時と同様に膝に乗ったり肩に上ったりして注意されている。出されたものを全て平らげた郁留は、渚の妹にまとわりつかれながら時々苦しそうに呻いていた。
「そういえば、郁留はなんで来たの?」
 忘れていたが、何やら焦って竜を探していた様子だった。
「会ったとき、様子がおかしかっただろ。家に帰ったら、庭に足跡があったから、庭の物を何か壊して元気なかったのかと思って」
 見事に全然違う。
「何を壊したの?調度品はおじいさんの物だから謝りに行きなよ」
「何も壊してないよ」
 郁留は、あれ?と首をかしげ、少し考えて、心配して損したとため息をついた。
「ちょっと、稜輔達と喧嘩して」
 本当は一方的に突き放して出ていっただけなのだが。
「あぁ、そう、そんなこと。するだろ。喧嘩くらい」
 郁留はもう興味がなさそうに適当に返事をして、三人分の寝床の準備をしている渚を手伝いに行った。
「竜くん、お父さんとケンカしたの?」
 渚の妹が取り残された竜に話しかけてきた。
「お父さんっていうか」
 稜輔は、何だろう。お父さんは違うかな。
「まぁ、そんなとこかな」
「うちは毎日ケンカしてるよ。兄ちゃんは姉ちゃんに怒られてるだけだけど」
 姉にやられっぱなしの渚が容易に想像できて、思わず笑えた。
「竜、ちょっとこっち来て」
 寝床の準備をしていた渚が部屋に呼ぶ。行ってみると、部屋の端の方で郁留がスヤスヤと気持ちよさそうに眼鏡も外さないまま眠っていた。
「疲れてたんだね。竜を探し回ったみたいだし」
「そっか」
 つけっぱなしの眼鏡を起こさないようにそっと外してやる。渚は押し入れから掛け布団を出してきて郁留にかけた。
「もう寝ようか。嫌なことがあった日は早く寝た方がいいんだよ」
 渚には何も言ってないのに、何かあったと察して、何も聞かずに気分転換に付き合ってくれていたらしい。そういえば、明日帰らなければいけないと考えても、嫌な気分はよみがえってこなくなった。
「渚ってモテそうだな」
「まぁね」
 電気を消して、三人並んで横になった。あまり広くない部屋なので、寝相が悪いと体が当たりそうだ。ほぼ一日中外にいたので、思ったより疲れていたのか、目をつむるとすぐに眠れた。










 朝は早めに起きたつもりだったが、渚の家族はすでに全員起きて朝食の準備をしていた。竜は急いで寝起きが悪い郁留を起こした。朝ごはんの量もなかなか多い。全て平らげてお腹いっぱいになってまた眠たくなっている郁留に「先に帰るよ」と言うと、小さく手を振っていた。渚一家に「また遊びに来てね」と見送られ家路についた。
 稜輔と千秋に泊まりの連絡をしなかったが、心配しているだろうか。玄関のドアは鍵がかかっていなかった。音を立てないようにそっと家の中に入る。リビングで稜輔がソファーで新聞を読み、千秋はテレビを見ながら食器を洗っている。何事もなかったかのようにいつも通りだ。
「早く入ってきなさい」
 稜輔の声は穏やかだった。怒っている様子もなく、いつも通りだ。稜輔は突っ立ったままの竜をソファーに座らせると、「話をしよう」と隣に座った。千秋は竜と稜輔のお茶を目の前のテーブルに置いて、少し離れたところに座った。今から真剣な話が始まるのだと思うと緊張して顔が強張る竜に、稜輔は簡潔に自分のことを話した。竜が卒業したら稜輔は当主になり、会社を引き継ぐことになっていると。
「俺が卒業したら?」
 自分の卒業というワードに引っかかった竜は眉間をギュッと寄せた。
「俺のことを皆で考えてくれていたのは嬉しい。でも、それで誰かが我慢したり、嫌な思いをするのは嬉しくない。俺のタイミングに皆は合わせなくていいよ」
「そっか。竜はそれが嫌だったんだね。でも、僕と千秋ちゃんは我慢なんてしてないよ」
「じゃあどうして今まで結婚しなかったの?子供ができたらもっと喜ぶものじゃないの?俺に気を使ってるからじゃないの?」
 竜の問いに苦笑いをしながら目を合わせる稜輔と千秋。言葉を選んで話そうとする稜輔を遮って千秋が話し出した。
「結婚だけが幸せだとは思わないでね。しなかったのは私のわがままよ。子供ができたって言うのが少し気まずかったの」
「僕は千秋ちゃんにずっと振られていたんだよね」
「なんで?」
 稜輔のプロポーズを断る理由が分からず、竜は千秋に食い気味に尋ねた。
「仕事がしたかったの。その為に大学に行って勉強してたんだから」
「だからって断らなくてもいいのに」
「結婚して子供ができて育児だって言ったら仕事の時間が取れないって思われるでしょ?男の人と平等に働きたかったの」
 竜は「ふーん」と言いながら分かったような分からないような顔をした。おそらく男子高校生の自分では体感しないことを千秋は感じで、先を読んで行動していたのだろう。
「でも、確かに竜が大人になってからって思っていたところもあったわね」 
「全てのタイミングを竜に合わせてしまったからプレッシャーになってしまったんだよね」
 伸之輔はもともと体が弱く、たまたま無理をしてしまったこと、稜輔は当主や社長になることは特に抵抗はなく受け入れていること等、たくさん話をした。竜はただ、知らないことが多かったもあり、勝手に悪い方に思い込み過ぎていたと分かって心が軽くなった。
「何も話さなくて悪かった。知らないままだと不安になるよね」
 いつまでも子供扱いをして、隠し事をした結果、竜が怒ってしまったことに気がつき反省をする稜輔はいつも通り、竜の頭を撫でようとしたが、思いとどまり、竜の肩をポンポンとたたいた。
「次からはきちんと話すよ。でも、一つだけお願いがある」
「何?」
「僕らから距離をとらないでくれないか?」
稜輔は寂しそうに笑うが、竜は何のことか分からず首をかしげた。
「反抗期も覚悟していたのに、君は一向に聞き分けが良い。友達と遊んだり部活もしていいのに、早くに帰ってきて家事もする。お小遣いが欲しいとも言わない。僕はどうすればいい?」
「それは……」
距離をとっているように見えたのか。稜輔に反抗しても敵わないような気がするし、友達とも十分に遊んでいるし、やりたいことも欲しい物も特にないだけだ。それをどうすればいいかと聞かれても、どう答えればいいか分からない。
「俺は、別に我慢なんてしてないよ。十分満足してる」
「じゃあ悩み事とか……」
「春希が話を聞いてくれるから、特に溜め込んだりとかもしてない」
「春希ちゃん、ね……」
稜輔は肩を落として、また寂しそうに苦笑いをした。
そうか。距離をとられていると思っていたから話しづらかったのか。稜輔になるべく我儘を言わないように意識はしていたが、それは稜輔にとっては寂しいことだったのか。ただ困らせないようにと思っていただけなのに。
「今度からは何かあったら言うよ」
すると、稜輔は「本当?」と嬉しそうに笑った。



 数か月後、稜輔は予定より早く社長兼当主に就任した。伸之輔が稜輔の補佐をし、二人で会社を回していくそうだが、今時の世襲制に納得がいかない一部の社員からは反感を買ってしまい日々苦脳しているようだ。