おまえはだあれ?

最初に目を見て言うのはこの言葉。

この問いにすぐに答える竜は、すでに人と共に過ごしているものが多い。

自然の中で生きているものは、なかなか自分は誰だかなんて考えて生きてはいない。
己は己。
それ以外なく、ただ生きるために生きている。

どこで生まれたのかを聞く。
どんなふうに大きくなって、どんなふうに暮らして、今どこにいるのか。
仲間はいるのか、痛いところはないのか。

その合間合間に、お前はだあれと何度も聞く。


竜と話ができるのは、たぶん生まれた時から。

生まれる前は竜だったんだから、人になるよりも竜でいた時間の方が長かったんだから、当たり前だと思う。不思議なことだと思いもしなかった。

人と話すよりも気を遣わずに話せる。


おまえはきれいだね。
空を駆けるのが上手だね。
空は好き? わたしは大好き。

しばらくひとり、一方的に話しかけていると、だんだん返事が返ってくる。

きっとずっと返事はあるけど、わたしが聞こえていないだけ。
少しずつその子の声の聞き方が解ってくる感覚が近い。

みんなそれぞれに見た目が違うように、それぞれに音の高さや出し方が違う。

わたしの方が慣れていく。

竜を呼ぶ笛のように、人には聞こえない音で、それぞれの呼び方で呼ぶように。

おまえはだあれ。
何度目かに聞いた時に、頭の中に小さく響いてくる音がある。

シシリィ

それがこの竜の名前。
本当の名前は自分を無くさない為に持っておかないといけない。いくら主人といえど、全ての名を渡すのは良くない。

この国では昔から短い音で竜の名をつけるので、聞いた名前に似た響きの名にする。

わたしのように竜と言葉を交わせなくても、だいたい直感で付けた名はその竜の名に近いことが多い。

引き継いだ名や、適当に名を付けたりすると、うまくこちらの意図が伝わらなかったり、あまり長生きできなかったりする。
主従の関係が安定せず、暴れたりなんだりで大抵うまくいかなくなる。
まぁ、ずっと似ても似つかない名で呼ばれ続ければ、信頼もなにも無い。そうなっても仕方がない。

竜だってただ命令を聞いて動くだけの道具じゃないんだから。



シシリィ……うーん……じゃあ、シイにしよう。

おまえを今から『シイ』と呼ぶよ。

よろしく、シイ。
わたしはリアンだよ。
シイはわたしの友達だからね。
みんなそう。
だから、みんな、仲良くね。



「あれは……対話をしていると思っていいのか?」
「リアンは竜の言葉が解るらしい」
「お……おう……」
「信じないか?」
「話だけじゃな。信じてなかったよ……しかしあれを見たら信じるしかない」

火を囲んで食事の用意をしながらも、アドニスはリアンから目が離せなかった。

向かい合って座り、時々笑い声を上げたり、頷いたりしている。

何を話しているのか、言葉を発してはいないので一向に分からないが、意思の疎通は出来ているように見えた。
しかも良好そうだ。

「……なんか、感じは良さそうだな」
「いつもより時間が掛かってる」
「そうなのか?」
「和やかに見えて手強いのかもな、早い時は半刻も要らない」
「へえ……」

なにしろアドニスにとっては初めて見る事ばかりなので、今が常なのか、常あらざる状態なのかも判断がつかない。

アドニスからすれば、出発をする前から。
もっと言えば、リアンが露台にぶら下がっているのを見たあの時から、ずっと常あらざる状態だ。

ディディエたちの様子で判断するしかないから、返事もなおざりになってしまう。

「チタはリアンから離れようとしないし、俺たちの竜は遠く、近寄りもしない……ずいぶん強い個体だろうな」
「……ああ、なぁ」

ディディエが言った通り、チタはリアンの後ろで丸くなって目を閉じている。
寝ていないのはふらふら動きっぱなしの尾の先と、時折ぴくりと動く頭でよく分かる。
余裕ぶってはいるが、警戒しているの丸出しの素ぶりだ。

「いつもこんな狩りの方法を?」
「リアンがいる時だけだ。俺たちだけならまぁ、なんだ。昔ながらの……」
「……まぁそうだよな」
「チタがいたから、リアンもここまで強引だったんだろう」
「飛んでいるところを引き摺り落とすか? どうかしてる」
「どうかしてるな」
「戦じゃあるまいし」
「……そうだな」
「でもすごいな」
「ああ……いつ見ても惚れ惚れする」

情けなさそうな顔をして、ディディエはため息を細長く吐き出した。

あんな狩り方をされては、人と時間を割いて、命がけで行なっている狩りが馬鹿らしく思えるだろう。
しかも狩っているのは、儚げなひとりの女の子だ。

手際が良くて、誰も彼も無傷なのだから、感心する以外にない。

仕事を取られて? 腕が良くて嫉妬?
それは無いと言っていたディディエの気持ちが今はよくわかる。

リアンとはなにひとつ比べようがない。
なにひとつとして昔ながらのやり方とは違うのだから。



食事の支度が終わったあとは、ただ座ってぼんやりとリアンを見ていた。

相変わらず楽しげに話しているようだったが、正午を少しばかり過ぎたとき、リアンはよろよろと立ち上がり、銀色の竜に歩み寄っていった。

「お……い……」
「うん? ああ……終わったみたいだな」

ディディエはちらりとリアンを見て、温かいものを出してやろうと、鍋に水を入れて火にかけた。

リアンはそろりと手を伸ばして、銀の竜の嘴をゆっくりと撫でた。
そのまま体を触りながら、竜の背後に回り、翼に絡んでいる網を丁寧に外しだした。

チタが体を起こして、食い入るように目を光らせている。

今が一番気の抜けない場面らしい。

すぐに網は取り払われた。
ひどく絡んだ場所は刃物で切って落とされた。

ゆっくりと羽ばたくように動かすと、きれいに折りたたんで、そのまま体に貼り付けて落ち着かせる。

リアンは前に回って、銀の竜の頭を抱きしめた。

ついでに振り返ってチタの太い首にも抱きついた。

そして更についでにアドニスが呼ばれる。

「ゆっくり来て! でも堂々と!」
「はいはい……よっこいせ」

言われた通りに近付いていくと、リアンはアドニスの手を取り、竜の前に導いた。

「この人がアドニス。お前を大事にしてくれるからね。いい子にするんだよ」

銀の翼竜はくと目を細める。
値踏みするように瞳孔が細くなり、空色の光彩が濃い色になった。

「……よろしく頼む」
「アドニス、名前を呼んであげて。この子の名前はね……」

こそりと耳打ちされたことに頷き返して、アドニスは再び翼竜を見上げた。

「お前を大事にするよ、シイ」

きゅるとチタよりも高い声で一度だけ返事をした。

そのあとはふいと別の方向を見て、目を合わせる気もないらしい。

今まで自然に生きていた竜の成体が、初めて見た人に、攻撃するでもなく、食べようとするでもなく、ここまで大人しいこと自体とんでもない話だ。

信頼関係を築くには時間がかかる。

そんなことは分かっているから、アドニスはひとつも気分を悪くすることはなく、ふはと軽く笑うと手を上げてシイの首をぺしぺしと叩いた。

なぜかリアンが驚いた顔をしている。

「なんだ? どうした」
「うん……いや、よくシイに触ったなと思って」
「いけなかったか?」
「じゃなくて……怖くないの?」
「おお。……確かに、怖いな。……怖いな」
「ふふ……変なの」

ああ、と声を上げると、リアンは両腕を突き上げて伸びをした。

「疲れた! お腹減った! 寒い! ひもじい!!」
「ディディエの言った通りだな」

ぶはと笑ってアドニスはリアンの膝を抱えあげる。

「もうすぐ温かいお茶が入りますよ、お嬢さん?」
「牛乳と蜂蜜たっぷり?」
「たっぷり」
「やーったぁー!!」

竜にするのと同じ要領で、リアンはアドニスの頭をぎゅうと抱きしめる。

ディディエだけがリアンを大きな声で怒っていた。



遅めの昼食を終えたあと、ディディエたちは帰り支度に追われていた。
完璧に火を始末して、荷を作り直し、離れた場所にいる翼竜まで往復している。

リアンは地面の上に膝を抱えて座り、ぼんやりとしてシイを見ていた。

「さあ……今のうちに聞いておこうか?」

リアンの横にアドニスも腰を下ろし、胡座をかく。

「うん? なに?」
「どうして狩りに出ると押し切ったのか、教えてくれる約束だろう」
「ああ……覚えてた」
「忘れるか」
「うーん……少しでも色々たくさん見たかったんだけど」
「何を?」
「この世界を」
「この世界?」
「リアンリアンが生きてきたほとんどは、あの町の中で、そのほとんどはわたしの家に、でまたそのほとんどは部屋の中だったから」
「……ふん。まぁ、そうだな」
「わたしの見た世界は小さい」
「……でも大体の人はそんなもんだ」
「そうなの?」
「竜とは違う」

空を駆ける翼竜や、季節ごとに国を跨いだ距離の移動をする陸の竜もいる。

狭い範囲で過ごす種もいるが、あちこち移動する竜の世界は広い。

「人は生きる時間が短すぎる」
「……そう思うか?」
「わたし、この森で父さんと兄さんに拾われて」
「……リアン、お前」
「あれ? 兄さんに聞いてない?」
「……いや……覚えているのか?」
「はは。覚えてるよ」

痩せ細った子どもは、言葉も解さないほど幼かった。
切れ端のような布を巻いて、森の中を歩いているリアンを、狩りに出ていたディディエたちが発見した。

すぐさま保護して、我が子、我が妹として暮らすのは即決だったとディディエは言った。

森に捨てられた子どもが、それまでどうやって生きてきたのか。
言葉が無いので、想像するしかなかった。
少しずつ人との暮らしに慣れて、そのうち言葉を覚えて、いつの間にか森で生きていたことを忘れたようだと言っていた。

竜と話ができるのは、リアンが森で竜と過ごしていたから。
赤ん坊のうちに森に捨てられ、しばらくは竜がリアンの養い親だったからではないかと、ついさっき、リアンが竜と向かい合っているその間に、ディディエから聞かされた。

「……そうかぁ……。人の世界は狭いもんなんだね」
「お前は広い方じゃないか?」
「うん? そうなの?」
「そうだろ……翼竜で空を駆けるなんて限られた人だけだ。お前、空からこの森の端から端まで見たことがあるだろう?」
「うん、ある」
「ほとんどの人は、地図でしか森の全部は見られないぞ」
「ああ、そうか……そうだね」

ふへへと嬉しそうに笑って、リアンはやっと横にいるアドニスを見上げた。

「アドニス、良い奴だな」
「おっと、知らなかったのか?」
「思ったよりも」
「なんだ、評価が低かったのか?」
「高くなったんだから良いでしょ」
「……そうか? そうか……」

ううんと唸っている間に、リアンは立ち上がる。

ディディエから帰るぞと声がかかったのに応えていた。

「……おい、ちょっと待て、はっきり答えてない。まだ俺は納得してないぞ」
「……考えたら?」
「は? ずるいぞリアンリアン」
「すぐに分かるって」






リアンはシイに声をかけて、その体を撫でている。



ぎゅうと抱きついて、ぐりぐりと頭を擦り付けた。