紀之と話した時間は、一時間ちょっとだったけれど、沙織の心を弾ませていた。

紀之から滲みだす、穏やかで温かな雰囲気が、沙織を安心させ、寛がせてくれた。
 


紀之は、沙織に個人的な事は、何も聞かなかった。

出身校や住まい、年齢さえも。



また会いたいと言ったけれど、付き合いたいとは言わない。

甘い言葉も、思わせぶりなことも何も言わないから、会う言い訳にできる。
 



カフェを出て、並んで駅まで歩く。

紀之は紳士的な距離を保ちながら、さり気なく人波から沙織を庇ってくれる。
 


「ありがとうございました。私、丸の内線なので。」

駅の改札でお礼を言う沙織に、
 
「送ります。遅いから。」と紀之は言う。
 
「まだ7時半よ。」と沙織は笑ってしまう。
 
「せめて駅まで。駅で引き返しますから。」

家を知られることを、沙織が躊躇していると思ったのか、紀之は言い沙織はまた笑う。
 


「遅いからって言うなら、駅から家までが危ないのに。」と。

紀之は、しまったと言う顔で沙織を見る。

沙織は笑顔で頷いてしまう。
 

「じゃあ、お願いします。」と。

もう少し一緒にいたいと思ったから。

そして紀之も同じように思っている、多分。


何も言わないけれど。そう感じることが幸せだったから。