………
……

「え? もうお部屋を出られた?」

 クローディア様をたずねた私に、女中のエリーカがそう教えてくれた。
 どうやらどなたかとお約束があったらしい。

(まだ体調が万全ではないのに……。でもクローディア様が自らお会いに行くだなんて……。いったいどなたとのお約束なのかしら?)

 まさか恋のお相手では?
 ……なんて妄想を勝手に膨らませた私は、エリーカにたずねた。
 
「クローディア様はどちらに向かわれたか分かりますか?」

 まだ12歳の幼いエリーカは、眉をひそめて考え込んでいる。

「いえ、正確には……。でも、方角は中庭の方だったような……」

(中庭……。あっ! あそこかも!)

 脳裏に閃いたのは庭園のはしにあるガゼボだ。
 ガゼボとは壁のない屋根付きの休憩スペースのことで、クローディア様のお気に入りの場所の一つなのだ。
 
「分かったわ! ありがとう!」

 私はエリーカの肩をポンと叩く。
 まさか平民の自分が、貴族令嬢から親しげに礼を言われると思っていなかったのだろう。エリーカは目を丸くして、頬を赤く染めている。私はそんな彼女をそのままにして中庭の方へ駆けだした。

 季節は春。
 宮殿の外を一歩出れば、ふわりと花の香りが鼻をくすぐる。
 百人以上いる庭師さんたちが丹精込めてお世話している庭園は、まるで絵画に描かれた天国のようだ。
 その中を風となって駆けていく。
 廊下じゃなければパパから怒られる理由はないもの。
 私は息が少しずつ荒くなっていくのを感じながら、目的のガゼボに向かっていったのだった。
 
(あっ! あそこだわ!)

 白い屋根が目に映る。
 ドキドキと胸が高鳴ってきたのは、クローディア様の秘密を知ることができるかもしれないという好奇心のせいではなく、きっと駆け足のせいだ。
 そんな風に言い聞かせているうちに、見覚えのあるドレス姿が目に入ってきた。
 
(クローディア様だわ!)

 長くてウェーブのかかった金色の髪、透き通った白い肌、儚さを感じる細い背中、そして聡明さを映し出した美しい横顔……。
 クローディア様をかたどる全てが私の憧れ。

(ただおそばにいたい……)

 そんな気持ちにかられて、私はガゼボに近づこうとした。
 しかし、その足はピタリと止まってしまったのである。
 
(ジェイ様!?)

 なんとクローディア様の隣にいたのは、ついさっき廊下ですれ違ったばかりのジェイ様だったのだ。
 
(そうか! ジェイ様もクローディア様のお部屋をたずれてらっしゃったんだわ! そして私と入れ違いになったということだったのね)

 そんな風に納得していると、ジェイ様の優しい声が聞こえてきた。
 
「お体の加減はいかがでしょう?」

 クローディア様は小さく苦笑いする。
 ジェイ様はそれで答えを察したようだ。
 
「そうでしたか……」

 ジェイ様が顔を曇らせると、クローディア様は少しだけ怒ったような顔で言った。
 
「ジェイ。二人きりの時くらい、他人行儀な言葉遣いはやめて、と何度も言ってるでしょう」

 ジェイ様が目を丸くする。
 クローディア様は目を細めてニコリとほほ笑んだ。
 
「ねえ、知ってる? 『彗星の王子様と3つの奇跡』というおとぎ話では王子様のキスで奇跡が起こるのよ」

 私はそのおとぎ話を知っている。
 悪い魔女に支配されてしまった世界で、星に乗ってやってきた王子様が3つの奇跡を起こして世界を救うというお話だ。
 魔女の呪いで百年の眠りについたお姫様に、星に乗ってやってきた王子様がひたいにキスをする。
 するとお姫様が目覚めた。これが第一の奇跡。
 次に王子様は魔女によって荒れ果てた大地にキスをする。
 するとみるみるうちに大地に輝きが戻り、お姫様の住む立派なお城が建った。これが第二の奇跡。
 最後に王子様はお姫様と長いキスをする。
 するとお姫様の中に強い力が沸き上がって、魔女を退治した。これが第三の奇跡。
 そうして王子様とお姫様は末永く幸せに暮らすことになる。
 
「どうしてそんな昔話を?」

 表裏のない声でジェイ様がたずねると、クローディア様はいたずらっぽく笑った。
 
「天才軍師と騒がれている割には意外と鈍いのね」

「すまない。戦場と乙女心は水と油くらいな違いがあるものでね」

「ふふ。じゃあ教えてあげる。私はね……。奇跡を起こして欲しいってことなの」

「奇跡?」

 そうジェイ様が目を丸くした瞬間――。
 クローディア様がぐいっと身を乗り出した。
 そして自分の唇をジェイ様の唇に重ねたのだった。