麻衣子は今、朝の微睡みの中にいる。少しクセのある髪は適度に寝乱れ頬に落ち肩に流れた。乳白色の薄いベッドカバーの下には下着も何も着けていない彼女の裸体がある。たった今曲げていた体を伸ばしたので、その布がずれ俯せの背中が現れた。左の脇腹にほくろが1つある。このほくろについて占いの本で調べてくれた男がいたが、幸運のものであったかどうか彼女はもう覚えていないし、気にするような性格でもなかった。ただそのほくろが彼女の華奢な体に1つの表情を与えているのは確かだ。
 麻衣子はもうはっきりと目覚めている。ずり落ちた布を片手で顔まで引き上げた。ベッドの横に置いた丸い天板のスツールの上にあるデジタルタイマーは、6時丁度になろうとしている。昨夜、正確に言えば今日になってかなり経ってタイマーをセットした。もうじきビデオデッキにセットした音だけのテープが回り出し、ボーズの101MMから彼女の好きなクラシックが流れて来るはずだ。彼女はそれを待ちながら目を閉じている。
 暫くして機械が始動する音の後、低くゆっくりと前奏が始まると、麻衣子はスツールに手を伸ばし、タイマーの隣に置いた煙草のパッケージから細いメンソールの煙草を1本抜き取って指に挟んだ。口に加えもう一度手を伸ばしライターを探す。無い。ああそうだ、あいつが持って行ったんだ。下成誠。送り狼になるためにコーヒーを1杯だけ飲ませてくれと白々しく言った、麻衣子の嘗ての恋人。本当にコーヒーだけで帰そうとする麻衣子に、終いには負け惜しみの捨て台詞を浴びせて帰って行った。あの時彼が手に持って振り回していたのは、麻衣子の電子ライターだった。煙草を指に戻し結局彼女は起き上がった。起き上がりざまにブラインドを逆撫でした。プレートの向きが変わり外の光が差し込んだ。昨夜行ったスナックのマッチがあるはずだ。ハンドバッグまで裸で歩いた。少し寒い。7月だというのに。梅雨の中休みで昨日はとても天気が良かった。早くも梅雨明けかと思われたが、今日からは再び雨だろうか。晴れるとも曇るとも決めかねているような空の様子を、裸のままベッドに腰掛け脚を組み煙草を吸いながら麻衣子は暫く眺めていた。

 ワンルームのマンションに引っ越して丸3ヶ月経った。麻衣子が突然同棲をやめたので、友人たちは勿論びっくりしていたが、彼らよりもっと驚いていたのは彼女の母親だった。今更別れても嫁の口は無いぞというのが母親の弁だ。
「別れたんじゃないのよ」
 と、3ヶ月前のある日電話口で麻衣子は言った。
「そんな世間体の悪い事ばかりしないでよ」
 極々常識的な母親は人並みでない貞操観念を持つ娘をひどく嘆いている。これも全て父親のいないせいだと安易に結論づけたがる。
「もう24なんだからそろそろ落ち着かなきゃダメじゃないの」
「ママが思ってるほどチャラチャラしてなんかいないわよ」
「だって2年かそこらで別れちゃって」
「だから別れたんじゃないってば。一緒に暮らすのをやめただけよ」
「じゃあ彼と結婚する気はまだあるのね」
「またそれだ。ママは自分が結婚に失敗したくせにどうしてそんなに私を結婚させたがるわけ?」
「失敗したからこそお前にはちゃんとした結婚をしてほしいんじゃないの」
「気持ちはありがたいけど」
「いい加減にハラハラさせるのはやめてよね」
「そんな変な事してないじゃない」
「ママにとっては十分変ですよ」
 同棲をやめたことをとやかく言われてもどうしようもない。麻衣子の我儘だと言われればそれもそうだと認めよう。だが新しい部屋を探していた頃の麻衣子は、兎に角今のこの生活をやめなくては自分がダメになってしまうと思っていた。強迫的になっていた。
 麻衣子がアルバイトで遅く帰ると、誠は腹を空かせて待ってたんだぜと膨れっ面をする。麻衣子が自分の金で旅行をしようとすると、留守の間俺はどうしてりゃ良いんだと筋違いのとがめだてをする。外泊をすれば、自分を棚に上げて怒る。あれ?これは何か変だと思いつつ1年目は過ぎた。2年目は2人とも大学を卒業し、社会人となっていた。誠は、一般企業に就職した麻衣子が教師となった自分より収入が上であることを知ると、意味も無く嫉妬し麻衣子の金をあてにした。その癖錯覚甚だしく、自分が麻衣子を養ってでもいるかのように亭主面をエスカレートさせた。
 一緒に暮らしていても何のメリットも無く、それどころかデメリットだらけだと気付いていた麻衣子は、それでも自分のペースは崩さずに自分自身のためだけに働いた。そしてこっそり独りで住むための部屋を探し始めた。
 この部屋の家賃は月10万円。麻衣子の給料なら十分暮らして行けるレベルだ。誠は今3万円の古いアパートに住んでいる。だらしない生活が目に見えるようだ。もう二度と彼には関わりたくないと思っているのだが、誠が未練がましく麻衣子に付き纏っている。麻衣子にしてみれば、誠がどんなに怒号しようが子どもがだだを捏ねるに等しく、軽くあしらうだけであった。
「私って結婚に向かない女なのよ」
 そう母親に言うと、
「そんな女は男の人と付き合う資格ありません」
 という応えが返って来る。尤もだが少し古臭いとも思う。人間の子孫は十分に繁栄している。死ぬことは稀だ。戦争でもない限り無意味に死ぬことは許されない世の中なのだ。ならば自分は子孫のためでなく自分のために生きようと麻衣子は決めていた。いずれ子どもができることもあるだろうが、それは夫となる男のためではなく自分のために産むことになるだろうと、彼女は予見するかのように思った。
 15分弱の1曲目が終わった。暫くの沈黙の後2曲目が始まった。麻衣子は立ち上がりキッチンへ向かった。裸の上にイクシーズの黄色いエプロンをし、冷蔵庫の扉を開いた。バターロール、チョップドハム、スライスチーズ、卵、胡瓜、レタスそしてトマトを次々取り出して朝食を作り始めた。
 今日は週の真ん中水曜日。オフィスは今日は早帰りの日だ。5時には仕事を切り上げなくてはならない。実務に関係の無い総務の上の人間がどういう意図でそう決めたのか知らないが、まるで実情にそぐわない。大方ダラダラ残業に対する警告なのだろうが、真面目に仕事をしている者にとっては迷惑極まりない規則である。だが麻衣子は上からの命令に殊更逆らうことはしない。理論を以って反発することはあっても決して反抗的ではない。会社側が労働力に対して正当な賃金を払う気が無いのなら、麻衣子だとて矢鱈に終身雇用に対して忠誠を尽くすことも無いと思っている。麻衣子は自分自身の生活のために働いているのだ。当然の事ながら。
 ゆうに2時間をかけて食事からシャワー、部屋の掃除、化粧や身支度に至るまで全て完璧にし終えると、麻衣子は2本目の煙草を指に挟み、ベッドの足元に立て掛けた等身大の鏡の前に立ち、自分を確認しながらゆっくり煙草を吸った。
「麻衣子は鏡に映ると顔が違って見える」
 と言ったのは誰だったろうか。

 ベッドの上に広げた新聞を畳み、ライティングデスクの下のブリキのバケツに入れた。このバケツは雑貨屋で買った物だ。駄菓子屋の店先でしゃれたバケツがキャンディーボックスとして使われていたのを見て、狭い部屋でのマガジンラックにと思い付いて、似たような物を探して買って来た。場所を取らず変に凝ってもいず、それなりの役割はしっかりと果たしている。これはめっけもんだったと麻衣子は思っている。
 腕時計がピピピと短く鳴って8時であることを麻衣子に知らせた。スツールの上のタイマーのスイッチをOFFにし、ハンドバッグを脇に抱えた。ドアへ向かおうとすると電話が鳴り出した。誰なのかは大体分かる。誠だ。いつも間の悪い時にかけて来る。シャワーを浴びていたりパック中だったりメイクラブの最中だったり・・・麻衣子が毎朝決まった時刻に出掛けることを知っているはずなのにどうしてかけて来るのだろう。そういう無神経さも麻衣子はイヤだった。どうせ持って行ったライターを口実に会おうとでも言うのだろう。それ以外の緊急な用事ならオフィスにでもかければ良い。だから出ない。ドアに鍵をかけた。電話のベルは外にまでは聞こえない。