ビルとビルの隙間で真っ赤に燃えている丸い太陽が、ゆっくりと山間に沈んでいく様子が見えた。

市内を流れる大きな川に、赤のような、黄色のような空が映って、凪いだ水面に太陽がゆらゆら揺れている。

河川敷に近いところを走る市内電車の窓から、それらの様子はよく見える。
毎日同じ時間に乗る電車でも、景色の見え方は全然違う。人の多さや、その日の天気、気温。言い出したらキリがないほどだ。

今日の夕日もまた、当たり前だが昨日見たのとは違った。

雲が赤い夕日を反射して、染まっていく。
もうすぐ、いつも降りる駅に着く。

家に入ってぼーっと夕日を見ていたら、たぶん、また思い出す。
わたしは、膝の上に抱えていたトートバッグの持ち手を、きつく握った。

最寄り駅のアナウンスがあって、わたしは椅子から立ち上がった。上着のポケットから定期を取り出し、読み取り部分にピッとかざして降りる。

電車が次の駅へと向かっていくのをなんとなく見届けて、わたしは空を見上げた。

東から暗くなっていく、空。
星に詳しくないわたしでもわかる、冬の大三角のひとつの、3つ並ぶ星はオリオン座。

冬になって空気が澄んでいるから、空や夜景がよく見える。


「行こ……」

わたしは迷いもせず、一人暮らししている家とは反対方向に足を向けた。

緩やかな坂が、今日はなんだかキツかった。
でもこの坂を登った上の団地に、目的地はある。

住宅街に紛れている、深緑の屋根のカフェ。
そこはわたしと彼の思い出の場所。


いつもの時間、いつもの場所。
いつもの席で、いつもの夕日。
いつもと同じ、少し苦めのカプチーノ。

ちらりと横を見ると、いつものカップルが夕日をバックに、笑顔で話し込んでいる。


わたしはマグカップに入った熱いカプチーノを飲みながら、そのカップルを時折見た。

わたしも、前までは。
つい そんなことを思ってしまう。

──あなたといられれば、どれだけ幸せでいられただろうか。
──どれだけわたしが、救われただろうか。


別れを切り出された理由は、分かっている。
理解してる。

でも、それでも。

「……はぁ」

そう思って、ため息をついた。

そのため息が、周りの人にはカプチーノを冷ますための息だと、そう思われていて欲しい。

……たぶん無理だけど。


***


翌週の同じ時間、またわたしは、深緑色の屋根のカフェの、いつもの席にいた。
今日は、いつもいるカップルがいなかった。

おかしいな、いつもならこの時間にいるのに。

そのカップルもわたしたちと同じで、いつも同じ時間、場所、席で笑い合っていた。


わたしはまたいつも通りにカプチーノを頼み、いつもの席に座って、薄く高い雲に覆われた、沈みかけの太陽を眺めていた。


「……ねぇ」

ふわりと、いつもと違う香水の匂いが漂った。

正面に向き直ると、身長が180センチ程ありそうで、仕立ての良さそうなスーツを着た黒縁メガネの男性が、湯気の出るマグカップを持って、立っていた。

「……はい?」

同じスーツでもあの人とは違って、真面目そうで几帳面そう。
わたしは彼に、そんな印象を受けた。

「きみ、いつもここにいるよね?」

「……えぇ」

黒縁メガネで、わたしは思い出した。
その人は隣の窓際の席にいつもいた、カップルの男性だった。

「えと……彼女さんは」

「別れた」

「え?」

「きみもでしょ?」

「……まぁ」


認めたくなかった。

けど、いい加減認めなくちゃいけない。
前に、進めない。


「ねぇ、よかったらここ、いいかな?」

断るわけにもいかない。

「……どうぞ」

わたしは渋々許可した。

綺麗な動作で座った男性は、コーヒーにふーっと少しだけ息を吹きかけた。


「別れたんだ?」

「フラれました」

「それはまた、なんで?」


言えるわけがないでしょう。

一般人そうなあなたに、わたしの元カレのことをそう簡単に言えるわけないでしょう。
ドン引くか、わたしも同類だと思うでしょう。


「……ぼーそーぞく、だから。迷惑かけたくないって言われたから」

でも結局言った。

きっと、引かれた。

ヤケになって、冷ましもせずにカプチーノをたくさん飲んだ。
口の中や喉が、とても熱かった。

「きみも、そっち系?」

「いいえ。わたしは、全然」

「……そうなんだ」

絶対、内心引いてる。

わたしはいたたまれない気持ちになって、男性から顔をそらし、窓の外を見上げた。

さっきまでまだ高いところにあった夕日は、いつの間にか落ちていた。西の方角にある薄く高い雲が、金色に色づいていた。


あなたとの時間は、夕日が落ちたら終わり。

わたしは、まだ熱を失っていないカプチーノを飲み干し、席を立った。

「……すみません、時間なので帰ります」

「きみたちはいつも、夕日が落ちたら帰っていたね」


男性のその言葉に、気づいていない振りをした。

まさか、気づかれていたとは。


***


わたしの元カレは、いわゆる暴走族とか言うやつだった。

土日など休日の夜の高速道路を、マフラーを外したバイクで乗り回っている。でもちゃんと料金も払うし、交通規制も一応守っているらしいが、詳しいことは知らない。

なにせ、わたしはそのヘンの世界とは、縁遠い存在だからだ。

昼間はいたって普通にしがない音大生で、授業がなければ、一日中レッスン室に閉じこもってピアノを弾くか、早々に帰ってしまうかのどっちかだ。
そして夜は、当たり前のように眠っている。

わたしが彼と話すのは毎週水曜日、太陽が西に傾き始め、沈むまでの間だけだ。
当然ながら、冬は短く夏は長い。


「……やっほう」

水曜日、またあの男性はいた。しかも既に、わたしたちのいつもの場所に堂々と座っていた。

「なんなんですか、あなた」

思わずわたしは言った。

「いやまぁ、失恋した者同士、仲良くしない?」

「……しません」

でもいつもの席から離れるのはなんだか不安で、結局わたしはいつも通りの席に座った。わたしは、カウンターで受け取った、ソーサーに乗ったカプチーノをテーブルに置いた。つまり、その男性の向かい側に座るのだ。

「またカプチーノなんだ」

「……いつも、飲んでたので」

「ふぅん」

何が楽しいのかわからないが、男性は楽しそうにくすりと笑った。

「ねぇ、きみの元カレさんは暴走族って言ってたけど」

どきっとした。

「ほんとにリーゼントとか長ラン着てるの?」

なんだ、そんなこと。

と、安心している自分がいる。

「あの人がいるチームは、スーツでした」

「え、スーツ?」

「チームによって違うみたいですけど、スーツでした」

わたしだって聞いたときは拍子抜けした。

わたしもこの男性と一緒で、長ランを着たり旗を掲げたりして走っているものだと思っていたからだ。


「警察に捕まったりしなかったの?」

「知らないです」


目は付けられていてもおかしくない、と思う。

この地域は昔、歩行者天国やお祭りなどに暴走族が乱入し、怪我人を出したことがあるため、全国的に暴走族が日中も走っているだとか、変な先入観があって怖がられている。

今は条例とかのお陰でそんなことはないらしい。
なんでも、服装に刺繍を入れることが禁止になったとかなんとか。


「……あの」

「ん?」

質問ばかりされているのだから、こっちだってしてみよう。

「フラれたんですよね?」


「……なんでそんなに決めつけなの」

男性は苦笑しながら、マグカップのコーヒーを飲んだ。

「まぁ、本当なんだけど」

「……やっぱり」

「え?」

「だって普通に考えて、未練がない人は思い出の場所になんか来ないと思って」

だから、あの人はここには来ない。

わたしだけ、いる。

「……正解だよ」

「綺麗な人でしたよね、元カノさん」

「ありがとう」

「……なんで、別れたんですか?」


ほんの仕返しだった。

男性は目を伏せて、自嘲気味に笑った。

「いつ死ぬかわからないあなたといるのが辛い」
そう言われた。


男性は言うと、コーヒーを飲んだ。
立ち入って聞いてはいけないような空気感が漂う。
そしてわたしたちの間に、いつ破られるかわからない沈黙が流れた。

店員の声や、BGMのしっとりしたストリングスや木管の、甘い音色。周りの人たちの声を潜めた話し声。

わたしたちが喋らなくとも、周りの音のお陰で完全な沈黙にはならないのが、良かった。

わたしから、その沈黙を破った。

「……聞いちゃいけないかもしれないですけど」

「いいよ。俺だって、きみに立ち入った質問をしたからね」

「どうして、いつ死ぬかわからないんですか」

波が岸に打ち寄せるように、周りの音が大きくなった気がした。


「警察官なんだ、俺」


「え……」

「それも、花形部署の刑事」


わたし、バカだ。

咄嗟に思った。


警察である人に、あの人のことを喋り過ぎた。

もし、わたしが話したことで、あの人たちのチームがもっと警察に目を付けられたりしたら。

それは全部、わたしのせい。


「……警察の人だから、いつ死ぬかわからないんですね」

声が震えた。
カプチーノを飲んだ。じんわりと、ミルクの優しい甘さが広がっていき、少しだけ落ち着いた。

「いつか、話した。俺の先輩の知り合いが殉職されたって。それから、俺にいつも訊くんだ。……死なないよね? って」

男性は頬杖をつき、窓の外──いや、彼にとっての"いつも"の席を見つめていた。

「そのとき、いつもはっきり返事ができなかった。……警察官に死なないなんていう確証、ないから」

ふっと笑った男性の表情は、優しく愛情に満ち溢れていたように思えた。

いつしかの自分たちを懐かしむような、表情なのかもしれない。


ふと、男性にあの人の姿が重なった。

暴走族だとしても、あの人は優しかった。
わたしを大切にしてくれた、と思う。

鼻の奥がツンとして、喉に何かがこみあがってくる。そして、熱いものが目から流れてくる。


あなたが先に、さよならと言ったから。

そうやって、人のせいにするのは簡単だった。


『迷惑かけたくない』

あなたはそう言った。

でもわたしは、あの人にとって、迷惑をかけてもいい存在ではなかった。
それを突きつけられた瞬間、傷ついた。


「……はい」

泣いているわたしに気づいて、男性がスーツのポケットからハンカチを取り出し、差し出してきた。

受け取れば、あなたとはもう戻れない。

そんな気がした。

でも、わたしは。


「……ありがとうございます」


もう、この人と会うのは今回限りにしよう。

これからはもう、ここにも来ない。


「……ハンカチ、ありがとうございます」

「うん。いいよ、それあげる」

「……それじゃあ、お先に」