水曜日、祝日、沢コー、午後一時半。昼食も食べてミーティングも終わった。これから本試合。
 達郎君に会いたくない。バイトは体調不良ってことでお休みしてるから二日会ってない。試合だからカツラできないし、でももう、どっちにしろ顔を合わせられない。合わせても、どうしたらいいかわからない。
「美都、どうした?」
 ハルが、ボールを持ったまま立ち止まった私の顔を覗き込んだ。
「なんでもない」
 そっか、ってハルは言ったけど、私が思っていることはわかっちゃっているんだろう。
「試合は二試合目。それが終わったら片付けて体育館入り口に集合。だいたい三時半からスタートになると思うから、二時半までは自由。二時半になったら隣のコートがあくからそこでフットワーク始めて」
「美都、コートがあくまで試合見よ?」
「うん。まだ時間あるよね?トイレに行ってくる」
「じゃあ体育館の二階にいるね」
 沢コーのトイレってどこだっけ。体育館にはないんだったよなー。隣の校舎に行ってみよう。あ、案内板があるじゃん。私はそっちに気を取られて、前から来る人に気がつかなかった。
「美都?」
 条件反射で声のした方を見た。いつも通りのかっこいい達郎君がそこにいた。ウィンドブレーカーを着て、一人で。
「美都だろ?」
 会いたくなかった。まだ心の準備ができてない。
「ひ、人違いですっ」
 そしてくるりときびすを返して体育館に逆ダッシュ。混乱&後悔。まただよ。また嘘ついちゃった。私は嘘つきマシーンか。話せばよかった。でもカツラがない。嫌われた。もう取り返しがつかない。
「あれ?美都、早かったじゃん。でもちょうどよかったよ。コート使うはずだった東第二が時間になっても来ないから先に使っていいって。みんなアップしに行くってさ」
 ハルが遠くから私を呼んでいる。声はどうやって出すんだっけ。心に、灰色の雲が目隠しをする。それは濡れた真綿みたいに重い。
「美都、早く早く・・・美都?」
 でも、どうして?アップしている最中ずっと、達郎君は私を見てた。姿を確認しなくてもわかる強い視線で、私だけを見てた。バスケのことだけ考えよう。バスケのことだけ考えよう。それがいい。一番いい。
 スタメンが呼ばれて、コートに五人が立つ。私はベンチに座ったまま、他人事のようにそれを見ていた。一年生の声援も、二階からの声も聞こえない。でも、私は耳を澄ませた。
 試合開始直後、ワンドリブルパスでつないで中間距離からのシュート。リバウンドをとってスリーポイント。入れたのはハル。隣の席で宮古先生が何か叫んだ。
 手が、次第に熱を失って冷や汗を伴ったまま冷たくなってゆく。世界中が雨模様。何かが私を追いかけてくる。逃げられない。もう、間近まで来ている。でも、どうすることもできない。重い、雨を吸ったマントが重い。
「小山」
 向けられた声に、はっとして横を向いた。
「次出すから、体動かしといて」
 返事をしてのろのろとウインドブレーカーを脱ぐ。公式試合、相手は沢コー。私なんかが出ていい試合じゃない。疑問と緊張が、一気に電流みたいに私の体を伝う。震える手を押さえて、軽い柔軟体操をした。
「美都、一発かましてきな」
 ノゾミが私の腕を叩いた。その途端、どうしてだろう、全部がワクワクに変わった。灰色の視界が色づいていく。広がっていく。そしてワクワクはドキドキに変わってく。
 先生が合図を送り、交代の指示が出た。見てると狭いコート。立つと広いコート。
「お願いします」
 交代の子とタッチしてオフェンスに加わった。大きく大きく鼓動が鳴った。でも、動き出したら何もかもが吹っ飛んだ。仲間の目を見て合図を読み取る、合図を送る。声を出しても、歓声が大きすぎて聞こえない。でも、声は直接頭に響く。誰の声かがわかる。
ボールを持つ手の震えが止まり、全身に血液が循環するのを感じる。私よりずっと背の高いディフェンスをかわした時の、その快感。
 ゴールへ向かうことを許された瞬間、私は低く回り込むフェイントシュートを、決めた。
「美都!」
「ナイスシュート!」
「次、もう一本!」
 戻ってくる仲間の笑顔、声、体中から発散されるエネルギー。
 丸い、小さな、たった一つのボールを十人で取り合って、それぞれたった一つのゴールへ向かう。それだけのことなのに、胸が熱く熱く震えた。だからやめられない。
 試合を終え、結局出してもらえたのは前半だけだったけど、静まらない高揚感を抱え、一人体育館の外へ出た。
「おい」
 顔を洗っていた水道から顔を上げると、達郎君がいた。
「試合、見た。やっぱり美都だったな、お前」
「ごめん、さっき、あの、」
「いーよ、いいもん見せてもらったから」
 赤い夕日の光を背に受けて、達郎君が笑った。
「それより、日曜はスマン。俺、すぐ頭に血ぃのぼるんだ」
 達郎君が後頭部をわしわしかきながら言った。
「違うの、藤コーがバイト禁止の上男女交際禁止だって勝手に思い込んでて、知り合いの人がいたから、誤解されたりしたらまずいって思って。思い違いだったんだけど、自分のことしか考えてなくって、あのその、」
「そうだったのか、俺、すぐ勘違いするから、」
 薄いコバルト色の空を、オレンジの光線が静かに渡っていく。周囲は絶えずざわついて、人の足音が行き交っていた。
「知ってたんだ」
「何を?」
「初めて会った時、本当はあれが初めてじゃないってこと」
 じゃあ・・・じゃあヅラとか最初から意味なかったじゃんっ。それを早く言って!って言おうとしたのに、あんまりにびっくりして、ただ口をパクパクすることしかできない。
「ここの体育館の二階に座ってたよな。ちっちゃくてどんぐりみたいな子だなって思って、覚えてた」
 そこで、いきなり達郎君は笑い出した。
「でもさ、いきなり髪の毛が長くなっててさ、しかもカツラってまるわかりで、十円ハゲでもできたんじゃないかって思って言えなかったんだよ。ストーカーだとか言うしさ」
「し、知ってたの?ヅラのこと!」
「やたら黒いし整っているし」
「私、友達に聞きに行ってもらったんだよ。ロングヘアーの子が好きだって言ったでしょ?だから、」
「あのさ」
 達郎君が、下を向いて頭をもしゃもしゃかきむしった。
「それって・・・告白だと思っていいわけ」
「え、え、え、え、ええええ」
 わたわた私、な、何てことをおー。
「違うの?」
「違くないないない」
 もうもうどうにでもなりやがれコンチクショーコンニャロメッ。
「なーんだ、そっか」
突然達郎君が動かなくなった、と思ったらまた笑い出した。何?何事?
「俺も、好きだ」
「はい?」
「二度も言わすかバカ」
「い、痛い。何で殴るのー?」
「日曜日さ、美都は俺と一緒にいるのを知り合いに見られたのがショックで店を出たんじゃないかって、一人で勝手に思い込んでてさ」
「ロングの子が好きなんじゃないの?」
 ちょっと不安になって聞いた。
「ご希望なら伸ばすけど」
「こっちの方がいいよ」
 達郎君が私の頭をもしゃもしゃとかきまわした。お父さんみたいな、おっきなあったかい手で。ずっとずっと欲しかった手の平で。
「俺は、ロングヘアーの子が好きなんて言った覚えはないよ」
 もうなんなのなんなの!ハルのばかあ!
「多分なー、それ、俺の弟じゃないかな。一つしか違わないし同じ高校だし似てるし、ランゼンなんて変な苗字だから、美都の友達は俺だと思ったんじゃねえ?」
「あ、そっか、うん、そうかも」
 前言撤回。ハル、一応アリガトウ。
「達郎君」
「?」
「好き」
 達郎君、黙って赤くなって、髪の毛ひっぱってる。おもしろい。可愛い。大好き。
こんな結末を、小さな頃から夢見てた。達郎君の心臓の音、聞こえる。私と重なってる。
「情けねえな、俺。不安でお前にあたったりして。ほんっとダメ」
「私も一緒だよ」
達郎君に甘えたくて、独占したくてもがいてた。いつの頃からだろうね、私たちが同じ気持ちになったのは。きっとすぐに話せるね。
「もぉしもぉしお二人さーん」
「「ギャッ」」
 二人一緒に叫んで辺りを見回すと、体育館の二階の窓からバスケ部全員がぎゅうぎゅうに身を乗り出しているのが見えた。
「お熱いのもいいですけどー、先生に挨拶に行かないと私たち帰れないんですよねー」
「あ、じゃあ、ちょっと、行ってくるね」
「あ、ああ」
「一緒に、帰っていい?」
「門のところにいる」
「うん!」
 そうして私は駆け出した。
 
神様が投げてくれたチャンスを、幸運にも私はつかむことができた。きっと、何億分かの確立で。
 今はまだ、胸の鼓動が止まらない。