誰かのために生きる、という言葉が嫌いだった。


また明日、という言葉が嫌いだった。


ひとは皆、明日は今日の延長線上にあるという。どこにそんな保証があるのか、どうしてそう言い切ることができるのか、俺にはよく分からない。


俺たち人間というものは、睡眠をとる。大抵の人が毎日寝る。そうしてひとは寝ている間に記憶を整理しているのだと、世の中の研究者たちは言う。


では、寝て起きた後の自分が果たして寝る前の自分と同一人物だと言うことができるのだろうか。何をもって、どういう根拠があって、ひとは昨日の自分と今日の自分は同じだと言うことができるのだろう。


寝ている間に記憶を操作されている可能性は。その記憶は本当に信じていいものなのか。そうだったのだと、違う記憶を植え込まれているのではないか。


そう考える俺の方が、世間は変だと言ってくる。どこにも保証なんてないくせに、『あした』を信じて、世間はいつだって未来があるように振る舞う。


また明日、という言葉と。週間天気予報、友達との約束、大学の講義の予定、高校の年間行事予定、レポートの提出期限、スケジュール帳、新聞のテレビ欄、残った冷蔵庫の中身、食品の賞味期限、挙げていけばきりがない。それほどまでに、ひとには『あした』が当たり前のものになっているのだ。


そのどこに、根拠があるというのだろう。


どうしたら、ひとはそんなに盲目的に妄信的に、『あした』を信じることができるのだろう。


例えば、世界五分前仮説というものがある。


バートランド・ラッセルによって提唱された、世界は実は五分前に始まったのかもしれないという仮説だ。


────世界が五分前にそっくりそのままの形で、全ての非実在の過去を住民が「覚えていた」状態で突然出現した、という仮説に論理的不可能性はまったくない。異なる時間に生じた出来事間には、いかなる論理的必然的な結びつきもない。それゆえ、今起こりつつあることや未来に起こるであろうことが、世界は五分前に始まったという仮説を反駁することはまったくできない。したがって、過去の知識と呼ばれる出来事は過去とは論理的に独立である。そうした知識は、たとえ過去が存在しなかったとしても、理論的にはいまこうであるのと同じであるような現在の内容へと完全に分析可能なのである。


こうつらつらと書き連ねると、少々難しいかもしれない。だが結論は簡単だと俺は考える。


要は、記憶というものほど確実性に欠けるものはないということだ。


世界は五分前にできた。いくら友達と話している時間が一時間を超えていようと、五分より前の記憶はただ記憶として脳に残っているだけのもので、本当にその場所で一時間前からその友達と話していたのかなんてものは分からない。それまでの記憶は世界ができた時に植え付けられたもので、決して自分自身が体験したことだと言い切ることはできないと、そういうことなのだそうだ。