「前島美緒と言います。初めまして」
お辞儀をすると、ゆっくりと顔を上げた。
控え目な化粧がよく似合っている。年の割りに幼く見えるのは、きっと髪が短いせいだろう。
「富田誠一郎(とみた せいいちろう)です。こっちは妻の裕美子(ゆみこ)」
「こんにちは、美緒さん」
妻の挨拶にもきちんと頭を下げている。ふむ。なかなか感じの良い娘さんだ。

四月…庭の桜が満開になり、花びらがチラチラと散り始めた頃、トオルが彼女を連れてやって来た。
つい先日、母親の優子さんから電話があり、仲人をお願いされた所だった。

「この度は、ご面倒をおかけします」
トオルはやや緊張気味にそう言った。
「他ならぬ哲司の息子の頼みだ。安心して任せておいてくれ」
「宜しくお願いします」
二人して深々と頭を下げておる。几帳面な奴等だ。

つい三ヶ月前、トオルはこの彼女の逆プロポーズをたった一言で断った。
怒った彼女は、その後一切口もきかず、送って行った際も顔を見ずに車から降りてしまったそうだ。



「そりゃトオル、誰が聞いてもお前が悪いぞ」
寒稽古の片付けが済んでから、ゆっくり話の続きを聞かせてもらった。
「どんな理由であれ、もう少し言いようがあっただろうに…。相手は本気でプロポーズしてきたんだろう?」
問いかけに少し考えながら頷いている。分かっているなら、何故そんな事をしたのか。
「…話の流れからして、多分そうだと思います。でも、一時的な感情の高まりもあったように思います…」
ゆっくり話を聞いていくうちに、成る程、トオルが一旦断ったのも無理ないなという気はした。
「彼女とはどうなんだ。その後連絡は取り合ってるのか?」
顔を曇らせている。この調子では、まだ意地の張り合いを続けているな。
「…取っていません。あっちもまだ頭に血が上ってる状態でしょうし、自分もまだ気持ちが固まりませんので…」
「この期に及んで…お前、まだそんな悠長な事を言ってるのか…」
呆れ返る俺に困った顔を見せ、こう反論した。
「しかし、明日を確実に約束もできないのに、生涯を共に過ごしてくれとは簡単に言えません」
「トオル…」
全く嫌になる程の強情っぷりだ。こいつがこんな融通の利かない性格だから、今まで独り者だったのではないか。
「ちょっとそこへ座れ」
自分の前に彼を正座させ、向かい合わせに座り込んだ。
真っ直ぐにこちらを見るトオルの目に、何を言われるのか分からない不安が感じ取られた。
その瞳は、哲司が亡くなったことを知り、病院に駆けつけて来た時のものと、どこか似ていた…。
「お前は…どうしてそんなに生きることを怖がるんだ」
俺の言葉にギクリと体が動かした。
「父親があんな死に方をしたからか?」
問いかける俺に、返す言葉もなく唇を噛んでいる。彼の曇った表情が、あながち間違ってないことを示していた。

「トオル、俺がお前の父親なら、生きる事をもっと楽しめと言うな。明日はきらめく星になっても、今日という日を忘れるなと…」
黙ったままのトオルがぎゅっと手を握りしめた。どうも悔しさが胸の内にあるようだ。
「哲司の死に方は…確かに急だったと思う。本人も心残りだったろうし、残されたお前達も立ち直るのに時間がいっただろう。でもな…」
(哲司…あの時の約束を、今、果たすからな…)
「『今日という日を懸命に生きてくれ』…哲司は言ってたぞ…息が切れるまで、ずっと…」
唇を噛み、目線を下げていた奴の顔が上がった。その瞳が驚きで丸くなっている。
その表情を確認しながら、あの日を振り返った。
「銃弾に倒れた時には、まだ微かに意識もあった。俺の呼びかけに目も開け、何でもなさそうな顔をしていた。けれど次第に意識が薄れ始め、ことの重大さを理解したように俺の手を握った。頼むと一言、掠れた声を出してーー」

『優子と…亨を…頼む…俺が死んでも…今日という日がある限り…懸命に…生きろと…生を無駄に…しないでくれ…と……』

「最後の言葉を託して息を引き取った。優子さんとお前が生きることに迷い、苦しんでいる時にこそ、哲司の言葉を伝える必要があると思った…だから今、こうしてお前に伝えている。父親の代理として、言葉を借りて…」
トオルの瞳の奥に広がる哀しみの色に、これまでの彼の迷いが隠されている気がした。
きっと彼は今日まで、幾度となく同じ言葉を繰り返してきたに違いない。
“ 人はいずれ死ぬのに、何故、生きなければならないのか…” と。

「…生きることは辛いことかもしれん。だが、人は生き続けていく限り、果たしておかなければならない責務がある。トオル…お前の場合、それは何だ?」
問いかけに対し、真っ直ぐこっちを向いた。頭の中でぐるぐると、思いが反芻しているようでもあった。
無言のまま考えるトオルを見つめ、答えが出るのを待った。これまでの生き方を振り返るような表情でいる彼に、余計な言葉かけは無用だと思えた。
「僕は…」
静まり返った道場内に、彼の声が響いた。
「父と同じ警官になると決めた時からずっと、地域住民の安全と平和を守ることを責務だと思って生きてきました…。でも、今、父の最後の言葉を聞いて、それよりももっと、大事なものを守っていかなければならないんだと…気づきました…」
膝の上に乗せた手に力がこもる。自分の一番大事なものを、その手の中に収めたいという気持ちが表れたようにも見えた。
「その…大事なものと言うのは……」
「……それは俺に言うことか?」
投げかけた言葉にハッとして気づいたらしい。
「そうですね…相手が違いました」
トオルは急に明るい表情になった。
心の中にあった迷いは追い払われ、やっと未来へと、目を向けられるようになったようだ。

数週間後、嬉しい報告があった。
「彼女と結婚しようと思います。相手からも了承を得ました」
誇らしそうに胸を張っていた。
奴が手に入れた心のオアシスは、彼が本来持っている自信を取り戻させてくれたらしい。


「お邪魔しました」
簡単な打ち合わせをして、二人は我が家を出た。
並んで歩く後ろ姿を見送る俺の後ろに、今はきらめく星となった哲司がいるような、そんな麗らかな春の午後だった……。