赤いオープンカーは確かに森川の趣味だ。その気障ったらしい小さな車は、だが、森川にこれ以上ないほどよく似合っている。たとえばこれで、森川が白いセダンなどに乗っていても、なんとなくしっくりこない。赤いオープンカーがこれ以上に似合う男なんて他に知らないなと石岡は思った。
 「これ、ほんとに俺が運転するんすか?」
 と石岡は尋ねた。手の中の鍵を弄(もてあそ)びながら五月の陽光を受けて光る赤い車体に移った自分のひしゃげた姿をにらみつけた。
 「ジャンケン、したろ?優しくしてくれるんだろ?」
 いたずらっぽく笑った森川が助手席側から言う。ドアに手をかけて、「ほら、はやく鍵を開けて」とその目が言っていた。

 こういう時の森川は多分、気を変えて「じゃあ俺が運転するよ」なんて言ったりはしない。とにかくどうしようもないところまで追い詰められたならともかく、ちょっと嫌だなあと思っている位のことなら嫌な事のひとつやふたつを我慢してやらせるタイプの男だ。石岡は小さなため息をついて革製のキーホルダーについたキーを挿した。

 「やだな。どっかにぶつけたりしたら、修繕費なんて俺の給料の何か月分飛ぶんすかね?」
 石岡は思い切り眉を顰めて言った。
 「ぶつけなけりゃぁいいだろ?」
 森川はなんでもないことのように言うけれども、普通の車のハンドルだって隣に森川がいるだけで汗をかくだろうと思うのに、こんな高級車のハンドルを握るなんて考えるだけで手がじわっと熱くなった。

 エンジンを掛けて、足元とギアをもう一度じっくりと確認した。石岡は教習所で習ったとおりの十時十分に手を置いて、額をハンドルにこすりつけるみたいにして助手席の森川を見た。
 森川はどっしりと助手席の背に身体を凭れさせている。石岡がいつまでも車を発進させないのに、少しも苛立った様子もなくただじっと座って、時折石岡を見ては可笑しそうに目を細めてまた前を向いてしまうのだった。
 致し方ないと観念した石岡はやっとアクセルを踏んだ。赤いオープンカーはゆっくりと駐車場を滑って行く。アクセル、ブレーキ、ハンドリング、ひとつひとつを確かめるように運転する石岡は、それでも広々とした駐車場を出る頃には少しずつ慣れてきたのか、ハンドルを握っていた手の一方をそっと膝にこすり付けて、片手で東京方面へハンドルを切った。

 赤いオープンカーは目立つ。日本の高速道路ではことに目立った。どう考えたって自分に似合っていない車をどうにかこうにか運転している石岡に通り過ぎる車がみんな物珍しそうに無遠慮な視線を投げかけるのが石岡には堪らなかった。
 「もうやだ」
 と石岡はつぶやいた。
 「なにが?」
 分かってて森川は尋ねる。
 「みんな見てる。」
 「お前が可愛いからだろ。」
 「んなわけねーだろーが。」
 「おい、石岡、言葉遣いには気をつけろよ。」
 森川はわざとらしく顰め面をして言う。石岡はすっと背筋を伸ばして
 「はい。社長。」
 とその冗談に答えた。

 確かにこの男は石岡の雇い主であるオーナー社長なのであった。そして、一時は恋敵でもあった。爽やかに風に吹かれている森川の優しく細まった目を盗み見て、石岡は不思議な感慨を覚える。

 「なあ。」
 森川は左腕を車のドアにもたせ掛けて波打つ前髪を抑えつけるようにしてまっすぐ前を向いたまま石岡に声を掛けた。
 「はい。」
 石岡はバックミラーで後ろを確認しながら車線を変更し、サイドミラー越しに海を盗み見た。光を受けた海の水面がキラキラと光っている。
 「何?」
 何も言わない森川を促すと、森川はじっと石岡を見ていた。石岡は森川を一瞬だけ見て、また前に向き直り五月の風を顔中に受けて目を細めた。一瞬見た森川の表情を、どこかで見たことがあると石岡は思った。そうだ、そう。
 「森川さん。」
 石岡はさりげなく話題を変えて、運転の安全を図る。


* * *
 
 都会のど真ん中のカフェのデッキ席は五月の爽やかな気候に誘われた人たちで盛況だ。コインパーキングからのんびりと坂を下って来た二人は少し迷った後、店内の窓際のカウンター席が空きそうなのを見て中に入った。
 斜めにかけていたボディバッグを下ろして石岡はそこの席にぽんと放って、レジ前に並ぶ森川を振り返った。森川はアイスコーヒーのプラカップを大きな手にひとつずつ握って石岡に掲げて見せた。狭いテーブル席の間を少し進んで、森川からカップをひとつ受け取った。

 デッキ席をウィンドーで隔てて石岡の前に座っている女性が、ホットドッグをちぎって血統の良さそうな細い犬に手から食べさせている。くるくると尻尾を振って毛足の短いその犬は「もっとくれ!」と中年の女性を見上げていた。つぶらな瞳には何の計算もない。あんなふうに誰かを見ることなんて大人になった自分にはもうないのだろう。赤ん坊だった頃にはそんなこともあったんだろうけれど、と思うとなんだかそれは自分ではないような気すらした。でも、きっと恋をした自分は同じような目をしていたに違いない、とも思った。「あなたをくれ」と自分はどんなにその男を求めただろうか。

 たった今何を考えているのか探るように森川は石岡を見つめていた。その視線に気づいた石岡はこくんと冷たいコーヒーを飲み込んでストローから口を離した。
 「好きだよ」
 と、森川が言った。それは、ともすると店内の喧騒にかき消されてしまいそうな位の声で、森川は、おそらく、自分のことではなくて、石岡のことを思ってどこかに逃げ道を作るように小さな声で言ったのだと、石岡には分かった。「聞こえなかった、何?」と、そういえば、それっきりになるその一言を、石岡はどうしようかと少し迷って受け止めることにした。森川をまっすぐに見つめて微笑むと、森川はほんの少し口の端をあげた。石岡が微笑んだのは、けして、「俺も」と言ったわけではないことを、森川はよく分かっていた。
 「ねえ、森川さん?」
 石岡は森川を見つめ返す。
 「俺はね、まだ失恋の痛手の中にいる。」
 「うん。そうだね。」
 「それでも、俺のことどうにかしたい、ってあなたは思うんですか?」
 「思うよ。思うか思わないかで言ったら、もうずっと、どうにかしたいって思ってる。」
 「今の、今も?」
 「うん。今の今も」
 石岡は森川から目をそらしてまた犬を見た。中年の女性はホットドッグに噛り付いて、尻尾を振っている犬の背中を撫ぜていた。
 「森川さん。」
 「どうにかしたい。」
 かぶせるにように言った森川をつい可愛いと思ってしまう。ぷっと吹き出して、石岡は森川を上目使いに見た。森川はつん、と目をそらしてウィンドーの外を見た。こんな顔もするんだなあと思った石岡はついほんの数秒前まで思いもしなかったことを思う。

 「じゃぁ、どうにかなるとして、たとえば、どうにか・・・なるとしてですよ?俺は、その・・・抱く方の人間です。つまり…」
 「あー、そういやそうね。」
 「あなたもでしょ?」
 「んー、まあ、ね。」
 「まぁ、ね、って。これって結構由々しき問題だと俺は思うんですがね。」
 「そうでもねえだろ?」
 「そうかな。」
 拭えない疑問に石岡は眉を顰めてストローでザリザリとプラカップの中の氷をかき回した。
 「なぁ、石岡、俺、うまいよ、多分、すごく。」
 「そうでしょうね。想像がつきますよ。」
 「試してみたらいいじゃないか。お前、どっちもいけるかもしれないだろ?」
 「なんか想像もつかないけど。」
 「じゃ、分かった。いいよ。俺はどっちだっていいや。特に拘ってるわけじゃない。好きなやつといて、好きなやつとできんなら別に、どっちだってかまわない。」

 女性の膝の上にのった犬が気持ちよさそうに目を細めている。石岡はふいに森川もあんな顔をするんだろうかと想像する。石岡の腕の中で?それとも、自分が、森川の腕の中で。後者のほうが想像に容易い気はしたが、なんとなくふたりがお互いに腕を回して、子犬が眠るようにベッドに横たわる姿を想像することに成功した。
いつか、そんなことがあるのだろうか。

 ふと見ると森川はカウンターの上に組んだ腕の上に頭を乗せて、ぼんやりとデッキ席の向こうに行き交う人の流れを見ているようだった。それから目を閉じて、授業中に居眠りをする学生のようだ。汗をかいたプラカップから落ちる水滴を小さくなったナプキンで拭きながら、石岡は森川を見守った。しばらくすると森川は目を開けて石岡を見上げ、にやっと笑って言った。
 「ほら、いま、俺のこと、ちょっといいなって思ったろ?」
 「思ってないよ。」
 「ちぇ。」

 森川はゆっくり頭を擡げてアイスコーヒーを啜った。ストローをくわえた唇が、ちょっといいな、と石岡は思った。