*結ばれない手* ―夏―

「さてと……どこから話しましょうかね」

 杏奈はカーテン越しの淡い陽差しを背景にして、冷たい緑茶で唇を潤した。

「ナギには二つ年上の兄がいたの。名前は桜 拓斗(たくと)。私は二人の幼馴染(おさななじみ)で、拓斗の同級生……そして彼の婚約者だった」

「えっ!?」

 モモは思わず声を上げた。

 カランとグラスの中の氷が涼しい音を立てる。杏奈はそれをテーブルに戻し、モモに向けた眼差しは切なそうに潤んでいた。

「タクの話をする前に自己紹介が必要ね。私の名前は三ツ矢(みつや) 杏奈。きっと気付いたと思うけれど、桜と並ぶ三ツ矢家の一人娘よ」

 ──旧三ツ矢財閥──桜家と同じ日本四大財閥の一つだ……。

 モモは「理解した」と言うように、気管に入った酸素を一気に呑み込んだ。


「桜家と三ツ矢は昔からライバルでありながら、それなりに親交も深かったの。本家はとても近い所に在って、良く三人で遊んだわ。それを見た父親同士が勝手に私達の婚姻の約束を交わしたけれど、そんなものはなくとも私とタクはお互い好意を持っていた。だから特に反論もなく約束は続いていたの。……『あの日』までは」

「あの日……?」

 杏奈は両手で頬杖を突き、一度大きく息を吐き出した。

 溜息のような、決意のための準備のような……そしてテーブルに下げていた視線をモモの面前に持ち上げた。

「七年前……タクが自分で自分の命の期限を決めたあの時まで、ね」

「……期、……限?」

 モモは杏奈の言葉の意味を知りたくないと心の隅で感じていた。

 目の前の女性の表情は哀しくて(わび)しそうで、そして──大切なものを失ったという深い喪失感がまざまざと現れていたからだ。


「桜家の長男としてタクは、おじ様──父親の期待を一身に受けて、彼もまたそれに応えようと小さい頃から勉学に励んできたわ。彼はとても賢くて温和で優しくて……でも優し過ぎた。次代を引き継ぐ者としての重圧や、父親の周りを囲む重役達との軋轢(あつれき)や、諸々沢山のプレッシャーが彼を押し潰していったのね。けれど「トップに立つ者は心の内を探られてはならない」──おじ様のその言葉で、彼の心はいつの間にか閉ざされてしまったの。だからタクの顔に刻まれた笑みからは、誰も何も感じ取れなくなっていて……私も……気付いた時にはもう遅かった」

 能面みたいな微笑み──モモは春の誘拐事件以前の自分と凪徒の兄を重ねたが、いや、それは自分とは比べようもない、計りしれないほどの苦しみだったに違いない。

「タクはおそらく鬱病になっていたのだと思う。大学一年の秋、自室で手首を切って亡くなったの……十月二十六日……まさか自分自身の誕生日に命を絶つなんてね……」

「……」

 モモは愕然として絶句した。

 その日付にはどこかで聞き覚えがあった。

 ──ああ、そうだ……初めて杏奈さんが現れた時に放った言葉──「おじ様の言葉は絶対よ。十月二十六日──『貴方は手の内に戻る』」


「問題はここから……タクという後継ぎを失ったおじ様の──大企業をまとめる『社長』の次の標的は即座にナギに移ったの。ナギは次期社長候補、そして私の婚約者になった」

「そ、んな──」

 杏奈は少しだけ冷やかに(わら)い、少女は(おび)えるように言葉を失った。

「非情だと思う? 横暴だと? 面白半分で婚約は交わされた訳ではないのよ。桜と三ツ矢、もしも婚姻関係になったら……分かるでしょ? 日本の四大企業である二社が合併すれば、それは三大企業ではなく日本一になる。トップに君臨することになるのよ」

「だけど……それじゃ……」

 ──そこに愛情はなくても、いいの?

 モモの瞳は、揺るがない杏奈の眼から離すことも出来ぬまま震えた。

 そんな結婚、単なる自己犠牲ではないのか?

「ナギを不憫(ふびん)だと思う? 私のことも」

 杏奈は一呼吸置き、

「だったら貴女がナギの代わりに、三ツ矢の誰かに(とつ)いでくれてもいいのよ──『桜 桃瀬』さん」

「え……?」

 驚き見開かれたモモの大きな瞳に、意地悪そうに吊り上った杏奈の唇が焼きついた──。


「団長! 団長……!?」

 モモが杏奈の悪戯(イタズラ)な誘拐でがんじがらめにされていた休演日の午前。

 暮は一通の封書を握り締め、団長室の扉を叩いていた。

「何だ~騒がしいの」

 のんびり口調の団長がおもむろに引き戸を開いたが、暮の蒼白な表情は変わる様子もない。

「やっ休みの日にすみません! おれの部屋からこんなものが……!」

「ん? ……ふうむ。わしが受け取らないのを見越して、お前の所へ置いていったか」

 暮が焦燥を抱えたまま団長の眼前に掲げたのは、凪徒の退職届だった。

「え? 団長は凪徒が辞めるつもりなのを知っていたんですかっ!?」

「まぁ~……辞める気はなくとも、出さざるを得ないだろうとは思っておったがの」

「え?」

 既に握力でクシャクシャになった白い封筒の上下を引っ張り、団長の頬にくっつきそうなほど近付ける暮。

 その顔も声も驚き慌てたまま、団長の発した言葉に疑問を投げかけた。

「とりあえず落ち着け、暮。この間凪徒にもご馳走した珈琲でも飲むか?」

「は……あ……」

 相変わらずリズムを崩さない団長の調子にいささか唖然としながら、暮はそのどっしりした背中に続いて椅子に腰を降ろした。



 ☆ ☆ ☆


 辞表の中身は典型的な「一身上の都合により」から始まる一文しかなかった。

 いやに整った文字が無性に忌々(いまいま)しい。

 暮はその一字一字をほぼ睨みつけるような目つきで見下ろし続けた。

 団長が珈琲を運んでくるまで、何とか気を穏やかにさせようと無言で身じろぎもせずにいた。

「春に話した凪徒の家のことは覚えておるの?」

 気配すら感じさせずにカップを封筒の隣に供した団長の言葉で、暮はハッと顔を上げる。

「ああ、はい。旧桜財閥の一人息子だとか……」

 あの誘拐事件で高岡紳士が凪徒にした質問について。

 端から聞いていた暮は、一件落着した後団長に問い(ただ)していたのだ。

「あいつは訳あって桜家と縁を切り、五年前ここへやって来た。その『訳』とやらが今になって動き出したんだろ」

「『訳』……それを団長は知っているんですか?」

「まぁ……多少は、の」

 言葉を濁し珈琲をすする団長。

 視線を暮の頭上の天井へ向け、ややあって次の句を待つ暮に戻した。


「あいつが高校まで体操の選手だったことは知っておるの? 将来をオリンピック選手として有望視され、大学にも推薦での入学がほぼ決まっておった。が、高校二年の秋、二つ年上の兄さんが心の(やまい)で亡くなり、突如として桜の後継者に指名されてしまったんじゃ。凪徒は体操をやめさせられ、大学も次期経営者としての道筋に変えられた。それでもあいつは自分の夢を諦めて、一度はそれに従う道を選んだんだ……それが母親の希望だったからの」

「お母さんの……?」

 コーヒーカップに伸ばそうとしていた暮の手が止まる。

「あいつの母親は凪徒を産んだ際に身体を悪くして、ずっと家で()せっておったそうだ。だから凪徒の生活は、一番に母親を大切にしたものだった。それでなくとも息子を一人失った母親の悲しみとはいかほどのものだったのか、きっと思い知らされたのだろうの。凪徒は兄の分まで母親を愛そうとした。家業を(にな)い、立派な代表者となれば──が、兄に続いて二年後、母親も病が悪化して他界してしまったんじゃ」

「……」

 暮は一度カップを手にしたものの、それに口を付ける気にはなれなくなった。

 立ち込める香ばしい香りが鼻腔を漂い、やがて喉元で苦々しい空気となった。


「父親はあれだけの企業を操る男だ。常に仕事人間だった。母親の希望があったからこそ受け入れた道だったが、そうは言っても結局は父親の強制に他ならなかった。唯一あいつを繋ぎとめていた『母親』という糸が途切れて、凪徒は自分の夢をもう一度追いたくなった……が、父親と対立し、桜家を敵に回したも同然の身ゆえ、オリンピックはもう無理だ。それで見出したのが空中ブランコだったという訳さ」

「あいつ……そんな過去一度も……」

 暮は一息に珈琲を飲み干し、カップはカチャリと音を立ててソーサーの上に戻された。元々口数の少ない凪徒ではあったから、誰も彼の過去を穿(ほじく)り返してはこなかったが、そのような経緯があるなどとは、いつも身近にいる暮でさえも想像にすら及ばなかった。

「それと……凪徒にはここにいることにもう一つ目的があっての」

「え? はい」

 思いつめるように(うつむ)き、唇を噛み締めた暮の(おもて)が再び団長を捉える。

「父親を除いた唯一の肉親……何処(いずこ)ともしれない、どんな面立ちかもしれない、腹違いの『妹』を探していたんだ」

「いも……うと──?」

 ニンマリと目を細めた恵比須顔の団長に、暮は更なる驚きの表情を向けた──。


「あたしが……先輩の、いもうと……?」

 その頃。

 モモも乾いた唇から出てきた言葉を、自分自身信じられないというように疑問符で終わらせていた。

「そう……でもまだ確証はないけれど。それにもしそうだとしても、母親は別よ」

 顔の前で指を絡ませ、その上から覗くように向けられた杏奈の(まなこ)は鋭かった。

「ナギ自身から聞いた訳ではないけれど、その妹を探すためにサーカスへ入ったのだと思うわ。全国を回る巡業サーカス。だからこそナギは本名のままショーに出続けた。もしその妹が彼のことを聞かされていたなら……話は早いでしょ?」

 ──確かに……でも、どうしてそれがあたしなの……?

 モモは杏奈の問うように(かし)げられた目線へ微かに(うなず)き、続きを待った。

「ナギが六歳の冬だったわ。おじ様がタクとナギを連れて出掛けた先に、お腹の大きな女性が待っていて、おじ様は二人に言ったのだそうよ。「次の春、お前達に妹が出来るんだよ」って。でも幾ら経っても、その女性も赤ん坊も二人の前には現れなかった……ナギは子供心に母親を裏切った父親を恨んだみたいだけど、腹違いでも妹には会いたかったみたいね。兄と母を亡くして、父と縁を切ったナギは、唯一の肉親である妹を見つけたかったのよ。だから──」