「包丁の練習をしたい気持ちはわかるけどな、使いみちも考えろよ。だいたい料理なんてのは、包丁なんか使わなくたってできる。切るっていうのは、料理を構成する要素のごく一部でしかないし、包丁を使わない料理もたくさんあるんだ」

「……はい。すみません。わたし、考えが足りなかった」

「そうだな」

 シュンと下を向いた梓の低い頭の上に、碧惟は自分の腕を載せ、その上に顎を載せた。

「先生……?」

 梓の小さな声が聞こえたが、無視する。

 料理ができない人間が周囲にいないせいか、ふだん料理をしない人間がどういう行動をするのかなんて、考えたこともなかった。

 碧惟自身は、料理なんかしてもしなくても構わないと思っている。梓に当初伝えたのは、本心だ。

 けれど、やる気を見せた人間には、適切な指導が必要だ。そして、碧惟にはそれができるし、料理を広めていく側の料理研究家を職業としている以上、それも義務の一部のような気もした。

 なぜなら、あまりにも梓は無力だ。知識も経験も圧倒的にない。もう少し考えてから行動しろと思ったが、思考には知識も経験も必要なのだ。

「ごめん、言い過ぎたな。教えるって言ったのは、俺だ。面倒を見る」

 体を離して、梓の髪をなでおろすと、思いのほかツルリと手のひらが滑った。碧惟の家のシャンプーが髪質にあったのだろう。家に来たときより、艶が良くなっている気がするのは、これも身びいきと言うのだろうか。

 視線を合わせるために身をかがめると、戸惑ったような視線とかち合った。

 荒れていた肌も心なしか整ってきたように思う。仮にも“美人メシ”を食べさせているのだ。そうじゃなきゃ困る。

「明日は、カツでも揚げてキャベツを食べようか。あとは、コールスローとキッシュと……それでも余ったら、お好み焼きだな。まぁ、冷凍してもいいし」

「はい!」

 間近で梓が笑った。碧惟はグッと息を呑む。

 慌てて腰を上げた。

「そうと決まったら、戻るぞ」

 荷物を持って、足早に101号室に戻る。

 梓はそれについてきながら、呑気に言った。

「やっぱり先生の教えてもらうDVD、すごくいいと思いますよ。わたしだって、ドキドキしちゃいましたもん」

「気持ちがこもってないんだよ」

 碧惟は嫌そうな顔を作って、聞き流す。

「すみませーん」

 案の定、冗談だったようだ。

 まったく面白くない。碧惟ばかり梓を気にして、気を使って、意識している。

 それなのに。

「わたし、先生のこと、好きになりますね!」

(それなのに、すぐそういうこと言うから!)

「は?」

 できるだけ冷たく聞こえるよう、低い声を出す。

「先生の妻のつもりになるんですから、先生のこと好きになったつもりでいることにします」

「……おまえって、本当に変なやつ」

「いい妻になれるよう、がんばります!」

 無邪気に笑う梓を横目で見ながら、碧惟はやっぱり早く追い出すべきだったかと後悔していた。