翌日。俺は父さんに骨董品を売りに行きたいということを伝えた。
どうやら、父さんも臨時収入が欲しかったらしい。俺が言ってもいないのに、
「よし、母さんには何も言うな。分け前は半分ずつでいいな? ただ、お前は中学生だから大金は渡せない。銀行に振り込むから成人になったら使いなさい」
と、自ら言ってきた。
こういったところは、祖父の血をひいているなと感じる。子供のような大人だ。趣味である釣りのルアーが買えるなと、子供のような無邪気な笑顔を見せながら広告を見る。
そして、手早く、俺が持ってきた全ての骨董品を車に入れると母さんに、
「ちょっと、こいつが参考書欲しいと言っているから、一緒に本屋に行ってくるよ」
と、いかにも怪しい理由をつけてから、俺を誘った。
祖父と同じで、父さんは嘘が下手な人だなと思う。そして、単純な母さんはこれに騙されて、嬉しそうに「そう、高校受験だもんね。気をつけて行ってらっしゃい」と送り出してくれた。
物凄く後ろめたい気がするので、父さんに「帰りに本屋にも寄って」と言ったのは、ここだけの話で。
更に、父さんが意味深な笑みを浮かべた瞬間、はめられたのかもと思ったのも、ここだけの話にしておこう。
ただ、問題は骨董品の価値を見てもらってからだった。期待していた買い取り金額よりも安く、後部座席いっぱいに詰めこんだはずの品は、数万円程度にしかならなかったのだ。
つまり、贋作や大量に流通していた物ばかりだった。父さんと疲労困憊状態で帰宅する。そして、ふと後部座席に目をやると、俺の視界に信じられないものが飛びこんできた。
風呂敷包みで覆い、紐で括っている箱。それは紛れもなく、あの番傘が入っている桐箱だ。ついでに売ろうと思っていたのに、車から出すのを忘れたのだろうか。いや、思えば、こいつは俺の自転車にも載っていた。
偶然なのだろうか。そう思えなくなってくる。けれど、車内に置いたままにしておくわけにもいかない。
俺は仕方なく番傘を持って車を降りた。そんな俺を父さんは妙な表情をして見る。
「それは売らなかったのか? かなり高そうな物に見えるが……」
父さんは骨董品に興味がない。これは俺と同じだ。だから、高そうな物と感じたのは、目利きなどではなく奇麗に保管してあるからだろう。
「いや、大事なものかと思って売らなかったんだ。午後に、ばあちゃんに返しに行くよ」
本当のことを言ったら馬鹿にされると感じたので、何となしの嘘をつく。
「そうか……行くなら車を出すぞ。今度こそ、お宝を発見したいからな」
親切に連れて行ってくれるのかと思ったら、本音は買い取り金額に満足していないということらしい。
父さんが見ていたルアーは十数万単位だったから、その金額に達するまでは諦めきれないのだろう。
「俺は目利きじゃないから、高いのを見つけられなかったのかも。蔵にはあれの五倍以上は骨董品が残っていたよ」
そういうと、父さんの目が輝いた。本当に祖父にそっくりだ。そして、俺も父さんの血をひいているんだよなと思う。
お昼は焼き飯。それを俺と父さんは素早く腹に詰めこむと出掛ける準備をした。今度は母さんが見ていないのをいいことに、父さんは隠れて車の鍵を取ってくる。
嘘が下手なんだから、そのほうが良策だろう。俺も番傘を後部座席に置くと、助手席に腰かけた。その時だ。
「何だよ。またどこかに行くのか?」
不意に声が聞こえた。思ったより近くで。後ろを見るが誰かがいるわけもなく、父さんは気づいていない様子だ。
「父さん。今、子供の声が聞こえなかった?」
俺のこの質問に、父さんはすこし考えた唸り声を出すと、何故か愉快そうに笑う。
「子供の声なら、お前の口から出たぞ」
真面目に聞いているのに、空気を読めずに冗談を言うところも、父さんは祖父に似ていると言える。
ただ、それは今は置いといて。何よりも俺が怖くなったのは、後ろから聞こえた声が、蔵にいた少年を想起させるものだったからだ。
やはり俺は取り憑かれてしまったのだろうか――
蔵に入ってから奴の声に追われているから、祖母に聞けば何とかなるかもしれない。そんな願いのような、確定できない救いを求めている俺がいる。
「父さん。はやく車を出そう。遅くなると母さんにも怪しまれるだろうし」
「そうだな。帰りに骨董品屋に寄って鑑定してもらおう」
今のは、はやく祖母の家に着きたいがための口実に過ぎない。本心ではない俺の指示に同意した父さんは車を出すと、いつもより気持ちはやい速度で運転した。
俺と父さんの目的は異なっているが、そうしてもらえるとありがたい。
目標の竹林が見えてきて胸を撫で下ろす。俺は番傘が入った桐箱を手にすると、父さんよりもはやく車を降り、祖母を呼んだ。すると、祖母が目を丸くして出てくる。
「あらあら、今日は光彦も一緒かい。何で夢中になれるのかねえ。今、冷たい麦茶を用意するよ」
祖母が驚いた表情をしたのは一瞬で、すぐにいつも通りの対応をする。あの祖父と長年うまくやっていけたのは、祖母のマイペースな性格のお蔭なのだろうなと思えてくる。
「母さん。それよりも蔵の鍵を出してくれないか。蔵の中身は、はやめに処分したいから」
そんな祖母に的確な答えを返したのは父さんだ。祖母は久しぶりに来た息子が話に付き合ってくれると期待していたのだろう。何やら考えてから息を吐くと、三面鏡の引き出しから鍵を取り出して、父さんに渡した。
「行くぞ、光輝。確か蔵は二階もあったんだよな。二階には古銭があったかな……」
俺を誘った父さんは蔵の中身を記憶から掘り起こすように呟く。しかし、俺は昨日、二階に行く階段の前で、赤目で一本足の子供を見ている。二階と聞いただけで背筋に悪寒がはしった。
「俺、ばあちゃんと話したいことがあるから、もう少し時間が経ってから蔵に入るよ。中はホコリが少しきついと思う。それと、一階の棚板の一段と二段の分が昨日持ってきた物だから、空いてるよ」
空になっている段を父さんが見て、また聞きにくるのも面倒だと感じたので伝える。
父さんは、俺も蔵にすぐに入ると思っていたのだろう。不服そうな顔をすると蔵のほうに歩いて行った。
父さんが蔵に入るまで見送ってから、俺は番傘の入った桐箱を出す。そして、本題にはいった。
「あのさ、ばあちゃん。この番傘に書いてある『雨造』って、誰のこと?」
聞いた途端、祖母の顔色が変わった。と、いうよりも真剣な表情に変わった。
そして、俺の顔を見つめてから、今度は頬を緩める。
この反応は何なのだろうか? どう対応していいのか、非常に悩む。
「そうかい。光輝は呼ばれたんだね。光彦は聞こえなかったというのに……やはり、おじいさんっ子だったからかねえ」
呼ばれた? 聞こえなかったとは、どういう意味だろうか?
耳を澄ますと遠くでサイレンの音が響いていた。この暑い日に火事か。雨が降っていたら、消火の足しにはなっていたのではないかと、まるで自分のことのように考えてしまう。
祖母は、その音が徐々に小さくなっていくのを聞いているのだろうか。しばらく遠くを見るような目で蔵を見つめてから、俺に語りはじめた。
時を刻んでいる柱時計が、胃に響く重低音を数回ならした。
不意に吹いた風が、畳のイグサの香りと風鈴の音を運んでくる。
それは命を持たない無機質のモノたちが、その場にいると主張しているように思えた。
まるで、祖母の話を待ち望んでいたかのように――
「その番傘はね。おじいさんのおじいさんが使っていたものなんだよ。形見分けをしたのは、おじいさんが六歳の時らしくてね。何故か惹かれたらしいんだ。無理を言って、お願いして持ち帰ってきたと教えてくれたよ。そうさね……もう使われはじめて百年以上は経つのかな」
「百年って……凄い骨董品じゃないか。値打ちはなさそうだけど」
俺は祖母の話を聞いて興奮し、いらないことを言ってしまった。慌てて口を押さえたが、祖母はこれを失言とは思わなかったようだ。構わずに続けた。
「私と、おじいさんは幼馴染でね。家は隣同士だったんだ。だから帰る時は一緒。雨の日は、必ずその傘を差していたんだ」
思い出を脳内で反芻しているのだろうか。祖母はそこで席をはずすと、炊事場に行き、コップに入れたカルピスをふたつ持ってきた。それをちゃぶ台に置くと、一口飲んでから息を吐く。
「けれどね。ある日を境に、おじいさんは番傘を差さなくなったんだよ。まだ十歳の頃の話さ……あれは今日のように暑い日が続いた夏だった。今はこうやって蛇口を捻れば水も出る。けれど昔は井戸だった。その井戸が、雨が降らないせいか涸れてしまってね。水がなければ作物は育たない。人間も家畜も水を飲まなければ生きてはいけない。誰もが、もうここでの生活は無理なのではと思ったのさ。けれどそこで、奇跡が起きたんだ」
俺が「どんな?」と聞こうとすると、祖母は番傘の入った桐箱を指差した。そして、息を深く吸いこんだ。
「差せば雲わき、回せば風吹き、上下に動かしゃ雨が降る」
突然、祖母が歌いはじめたことで俺は呆然としてしまう。
「ざんざんぱらぱら、ざんぱらぱら」
最後は雨が降る擬音語だろう。そこで、祖母は歌を終えると微かに笑みを浮かべた。
「番傘を持って、おじいさんがそう歌うと本当に雨が降ってきたのさ。あの歌は忘れられないよ。そして、おじいさんは雨が降ってきたというのに何故か泣いていたのさ……何故泣くのか、聞いても詳しく教えてくれなくてね。ただ、番傘が呼んだのだと。それから、おじいさんは番傘を差さなくなってしまったんだよ」
カルピスの中に入った氷が溶けて軽い音を鳴らす。コップには大量の汗。俺は音につられてカルピスを飲むと、祖母に聞いた。
「番傘が不思議な力を持っていたということ?」
「さてね。その答えは、おじいさんにしかわからないよ。光輝、その番傘をあげるよ。家に持って帰っておやり」
まるで、物ではなく人を扱っているかのような言葉。番傘の話を聞いた俺は、祖父の言葉を思い出した。
『物と友達は大事にしろよ』
「まさか……あの子供と雨造って」
祖父の言葉。蔵にいた赤目の少年。不思議な番傘に書かれた雨造という名前。少年が俺に聞いたこと。そして、傘の特徴でもある一本足――
『なあ、虎彦は元気にしているか。また遊びたいんだ』
竹林が風を受けて騒ぐとともに、風鈴が鳴る。
「お前も友達だ」
背後で声が聞こえたような気がした。
振り返っても、そこに少年はいない。ただ、湿気のこもった涼しい風が肌に触れていた。
その後、俺は蔵に入ると、父さんと価値がありそうな骨董品を集めて売りに行った。
受け取った金額は五十万円。車に荷物を入れられたのと、持っていった掛け軸のなかに、有名な人が書いた絵があったらしい。とはいえ、俺は絵師の名前を聞いてもわからなかったけど。父さんも俺も望みの金額を手に入れることができて満足し、次は休日に行こうということになった。
ただ、父さんは俺が後部座席に置いていた番傘が気になったらしい。何度も「売らないのか?」と聞いてきた。俺も不思議だった。あれほど、手放したいと思っていた番傘を、今は手元に置いておきたいと思いはじめている。
家に着くと、俺は番傘を手に階段を駆け上がる。自室に入ると番傘の包みを取って広げて見た。柄には、やはり「雨造」と書かれた文字。
男物とされていた番傘の特徴ともいえる太い骨。雨傘として使用していた番傘は紙と紙がくっつくらしいが、祖父は奇麗にしてから桐箱に入れたのだろう。新品と言われても疑わないほど奇麗に手入れされていた。
「家に持って帰ってきたけど、どうやって使えばいいかな。学校に持っていっても馬鹿にされそうだし……番傘なんて、時代遅れだし、ダサいし」
「ダサいって、何だ?」
また声が聞こえた。蔵の中で聞いた子供の声だ。けれど、今の俺は先程の俺とは違う。
恐れずに声がしたほうへ目を向ける。そこに、赤眼でざんばら髪の、あの少年がいた。
目を合わせたまま、互いにしばらく動かず、一言も口にしない状態で時間が十秒、一分と過ぎていく。少年も俺の変化に気づいたのだろう。まばたきをしきりに繰り返しながら、俺の様子をうかがう素振りだけ見せていた。
「名前は雨造でいいのか?」
このままでは互いの関係が進展しないと感じたので、俺から少年に話しかける。
その瞬間、少年は返事のつもりか、首を縦に何度も振ってから満面の笑みを浮かべた。
「うん、おいら雨造。虎彦とは友達だ。お前の名前は光輝でいいのか?」
俺も雨造に倣うように、首を縦に一回だけ振って応える。再びの沈黙があった。
すると雨造が落ち着きなさそうに体を左右に動かしはじめる。まるで、トイレを我慢している子供だ。
「光輝は……おいらと友達になってくれるか?」
雨造は顔を上げると唇を震わせながら俺に聞いた。今度は視線を俺に合わせない。次の言葉の肯定を期待し、否定を恐れている。そんな問いのように思えた。
しかし、俺は雨造が何者であるのかわからない。安易に肯定してしまって取り憑かれたという事態は避けたい。いや、それ以上に今は雨造のことが知りたい。何故、祖父のことを知っているのか。桐箱の番傘と雨造のつながりとは何か。
「俺は……雨造のことを、まだ何ひとつ知らないよ」
これに雨造は困惑の表情を浮かべた。語ったことで自分が嫌われやしないか悩んでいるようだった。そして、雨造は口を開いた。
「ここは仲間の声が全く聞こえない。由美子の家にいた時は聞こえたのに。寂しいな」
雨造が理解しきれないことを言う。
由美子は祖母の名前だ。仲間の声? 祖母の家では聞こえたってどういうことだ?
「おいらは付喪神(つくもがみ)。長い間、大切に使われた物に宿る者。虎彦は、おいらの友達だったんだ」
「付喪神……」
雨造の説明を繰り返すように俺は口に出す。雨造には聞こえていないようだ。
付喪神の話は聞いたことがあった。付喪は九十九も意味する。九十九年間、大切に使われた物に宿る魂。それが付喪神。妖怪として絵巻に描かれているのを見たことがある。
そこで、こいつは俺に憑いてきた番傘の付喪神なのだと気づいた。番傘の色は赤だ。赤目の少年の特徴と同じ。傘の足は一本。俺の脳内で推測が結論となった。
「おいらは番傘の付喪神。けど、長いこと寝たから……虎彦はもういないのか?」
人には寿命がある。それを雨造は理解し、痛烈に実感しているようだった。唇を噛み、両拳を握り、涙を堪えているかのように見えた。
この返事に言葉はいらないのだろう。俺は首を縦に振って応じた。
『物と友達は大事にしろよ』
祖父の言葉が思い起こされる。雨造は何故、桐箱の中で眠っていたのだろうか。
けれど、今は深く考える必要はないのかもしれない。あの祖父が、そう言っていたんだ。いろいろと疑いを持つほうが馬鹿だ。俺の中での答えはそこに至った。
「虎彦は俺のじいちゃんだ。俺は孫……だから、雨造。お前が、じいちゃんの友達だったのなら、俺も友達だ。よろしくな」
その瞬間、雨造は笑顔を浮かべた。けど、普通の笑顔とは違う。涙を流しながらの笑顔。
こいつ、妖怪だというのに喜怒哀楽が激しい奴だなと思う。そして、何よりも人の想いを欲していると感じる。
そうか。付喪神は九十九年間、大切に使われた物に宿る魂。そう考えると、俺の取り憑かれるという認識は間違っていたんだ。こいつの想いは――
「光輝は、この時代のおいらの、はじめての親友だ」
たった数回の会話で親友といってくれた雨造を前に、俺は自分の浅はかな考えを恥じながら、差し出された手を強く握り返した。
その手は、物が変化した付喪神と思えないくらい温かかった。
番傘の付喪神、雨造と友達になると決まってから、いろいろと雨造について面白いことがわかってきた。
まず、俺以外の人には雨造の姿は見えないらしい。声も聞こえないようだ。
ただ、雨造と街中を歩いていると子供が驚いたりするので、子供には見える時があるのかなとも思う。大人には確実に見えない。霊感が強い人ならどうかと思うが、見えたとしても幽霊と思うだけで、付喪神とは考えもしないだろう。
付喪神は妖怪でもあるだけに、食事をしなくても生きていけるらしい。
事実、眠っていたのは六十年くらいだと聞いた。祖父は享年七十五歳。十歳の時に雨造と何かあったらしいから、正確には六十五年間、雨造は番傘の姿でいたということになる。
けれど、物を食べたら体に毒ということでもないらしい。子供だけに菓子とかアイスとかが好きになったらしく、特にチョコレートが気に入ったようだ。
雨造というだけに、雨とも関わりがあるようだ。番傘を開いた時に湿気を感じたのも、雨音が鳴っていると思ったのも、これが理由らしい。付喪神だけに妙な力もあるらしく、小動物を呼び寄せたり、自然と一体化するような能力もある。生命を潤すに値する能力を持っているのだから、その能力も納得がいった。
絵巻では番傘がそのまま変化した姿で描かれていたので、すこし気になり、雨造にとって番傘と雨造の人型は、どのような違いがあるのかとも訊いてみた。
どうやら、番傘は本体であり宿のような物。人型はその宿から抜け出た状態。いわば、霊体のようなものらしい。雨造の人型を俺だけが見えるということは、それが理由なのだろう。
番傘は雨造にとっての肉体だから、壊れたら人型のほうにも影響が出る。「大切に扱ってくれよ。それに保管も」と念を押された。
それなので、普段は母さんの目には触れない押し入れの奥に番傘はしまってある。
夏休みということもあって、祖母の家に遊びに行くことが多くなった。
近くで渓流釣りができるというのは、やはり魅力だ。そして、雨造がいると、何故か魚が面白いように釣れるのだ。
「光輝は虎彦に似ているな。おいら、光輝といる時が一番楽しいよ。由美子の家にも付喪神はいるけど、みんな頭がかたい奴ばかりだ。おいらとは遊んでくれない」
草履を脱いで川に入った雨造は平たい石を見つけると、川の水面を狙って水切りをする。石は一段、二段と軽快な音を立てて跳ねながら、対岸まで到達した。
こいつ、うまいなと思って、つい息を吐いてしまう。とはいっても、容姿は子供だが雨造は俺よりはるかに年上だ。遊びは熟練者といっていいだろう。
「俺も学校の友達と遊ぶより、ここで釣りをしたりするほうが好きだ。勉強も部活も競い合い。これぐらいは出来るはず。お前は下手だからとかの言い合いでさ。俺が言われているんじゃないけど、見ていても疲れることのほうが多いよ」
「おいら、よくわからないけど、学校って大変なところなんだな」
俺も雨造に倣うように石を拾って投げる。数回跳ねた石は川岸までとどかずに、途中で沈んだ。
「夏休みも、もう終わりだからな。学校に行くのが嫌だな。宿題はすぐに終わらせたからいいけど、はあ……奴らにも会わなきゃいけないと思うと嫌になる」
俺のクラスには小学生の頃から悪童として通った、横掘という奴がいる。
こいつが川口と海野という子分を連れて、誰かれ構わず因縁をつける。とにかく、自分が気に入らない奴は端からといった感じに。
俺と横掘が衝突する切っ掛けになったのは、休憩時間での出来事からだった。
横掘が話をしているグループが煩いと言って、消しゴムを投げたことからはじまった。その消しゴムが一人の女子にぶつかった。ただ当たっただけなら、騒ぎは大きくならなかったのかもしれない。問題は、その消しゴムが跳ね返って、一緒に話していた女子の目に当たったことだった。
当然、女子は横掘に謝るよう詰め寄った。しかし、横掘は「騒いでいたお前たちが悪い」と言い張って謝ることはしなかったのだ。
そこで俺は、「叱るならまだしも、消しゴムを投げつけるのはどうかと思うぞ」と言って、横掘を注意したのだが、横掘にとってはそれが気に入らなかったらしい。以来、俺が奴らの視界に入ると何かしら理由をつけて吹っかけてくる。
あいつらに嫌われるのは構わないが、奴は未だに「騒いでいた奴を叱った俺は悪くないよな」と、周りにも聞こえる大きな声で、仲間の川口と海野に同意を求めるように詰め寄ってくるのだ。
続けてもう一個、石を投じる。抑え切れない思いを込めるように。今度の石は見事、対岸にとどいた。軽いガッツポーズをしてから、雨造がどのような反応をしたのか見てみる。
しかし、雨造は俺の水切りを見ていなかったのか、目を閉じながら「うーん」という唸り声を出していた。
何だよ、つれない奴だな。成功したのに褒めないのかよ。そう言おうとした時だ。
何か思いついたかのように雨造は手を叩いた。そして、輝いた瞳を俺にむける。
「おいらも学校に行きたい!」
手を叩いた音が反響して消えるよりはやく、雨造は俺にそう言った。
きらきらと輝いている瞳には邪念や私欲というものが感じられない。純粋に学校に行きたいと願っている目だ。
「おいら、足し算も引き算もできるぞ。かけ算の七の位はちょっと苦手だけどさ」
小学生レベルかよと思ったら、祖父は十歳の頃に傘を差さなくなったという話だったっけ。祖父と雨造が何故、別れなければいけなかったのか。その経緯を知りたいと思ったが、昔のことを思い出させてしまいそうで、聞くのも気が引ける。今は雨造が言う時を待とうと思った。
「他の奴には雨造は見えないし……来るなという理由もないな。ただ、人のいる場所で俺に話しかけないでくれよ。これは答えると独り言にしか思われないからだ。だから俺は答えられない。話しかけるのなら、まわりに誰もいない時だ」
「わかった。それなら簡単だ。おいら、光輝の邪魔はしないよ」
言っている傍から「学校で何して遊ぼうかな」と言っている雨造を見て、俺は息を吐くしかなかった。
夏休みを終えた朝は憂鬱だ。誰もが同じだろうと俺は思う。
もし、夏休みを終えた初日の登校は、嬉しくて興奮するという奇天烈な奴がいるのなら、誰なのか教えてほしい。
と、思ったが、目の前に存在していることに気づいた。雨造だ。
目覚ましがなってもなかなか起きなかった俺は、雨造に叩き起こされた。
あまりにも起きろと煩いので階段を降りて食卓に向かうと、いつも、起きてこない俺を起こしにくる母さんが「あら、起きられたの? 珍しいわね」と目を丸くして言う。
付喪神に起こされたとも言えないので、黙って席に着いて焼きたてのパンに齧りついた。そして、コーヒーに砂糖とミルクをたっぷり入れて一気飲みする。
雨造がここに来たばかりの時は、目につく食べ物全てに興味を示されて煩かった。仕方がないから、母さんの目を盗んで雨造にも食べ物を渡す。俺から見たら雨造が食事しているだけなのだが、他の人には雨造は見えない。
――食べ物が消えているように見えるんだよな。
そう思うと、心臓の鼓動がはやくなる。ただ、それも繰り返すうちに慣れてしまった。
雨造がいない生活を今は考えられない。煩いと感じることはあっても、雨造は親友でもあり家族。弟のような存在になっていた。
『物と友達は大事にしろよ』
祖父が俺にそう言ったのが納得できた。
準備が終わると登校だ。初日だし、気乗りしないのもあるので足が重い。
しかし、途中で背中を叩かれた。級友の田中優美だ。横掘に消しゴムを投げつけられて目に当たった生徒が、この優美だった。
「おはよう。そのペースだと遅刻するよ。宿題は終わった? 私、英語作文に苦戦してさ。いとこの友達に手伝ってもらってね。アメリカ留学していた人だから助かっちゃった」
「それ、ばれないか? 田中は英語苦手なんだろ。それが、急に複雑な英文書を提出したら、おかしく思われないか?」
「それはちゃんと対策済み。ばれないように書いてって注文しちゃった」
手にしたカバンを軽く振りまわしながら、通り過ぎていく級友に「おはよう」と優美は挨拶をする。俺も続けて挨拶。雨造はというと、田中のカバンについているビーズのアクセサリーが気になるのか、姿が見えないのをいいことに触っていた。
行く時からこれだと先が思いやられるな。そう考えていると、雨造が戻ってくる。その表情は何故か気に病んでいるように見えた。
「あいつも付喪神になれるかな……声が聞こえなかった」
そう言えば、そんなことを言っていたなと思い出す。ここには雨造の仲間である付喪神がいないのだろう。
ただ、雨造のその落ちこみは学校に到着すると霧散したらしい。俺の心配を他所に、あちこち行っては、何かしら発見して興奮しながら、「あれは何か」と聞きに戻ってくる。静かに授業を聞いていたのは一時限目の二十分間だけだった。無理もない。十歳の祖父に付き合っていた学力なら、中学生の授業は理解不能だろう。
それでも給食の時は寄ってくる。席を合わせているために、欲しがる雨造に渡すわけにもいかない。牛乳パックが特に気に入ったらしく、飲み切って音を立てている奴を見て大笑いしていた。
授業が終わると疲労感が半端ではないくらい激しく襲いかかってきた。掃除するのも億劫だ。皆で適当に終わらせると帰り支度をする。
雨造も帰る雰囲気を感じ取ったのだろう。俺が帰ることを伝える前に来てくれた。
「田中って子。指差された後、何て話していたんだ。おいら、全然わからなかった」
英語の宿題の朗読は田中が先生に指名を受けた。英語の苦手な田中は、自分では理解しきれていない英文を必死になって読んだ。それが雨造には不思議でならなかったらしい。
「英語……といっても雨造にはわからないか。違う国の言葉だよ。ほら、お前ともよく話したろう。オッケーとかサンキューとか。あれは単語で、田中が今日、話したのは文章」
「ふーん」
何となくの返事を雨造はする。この野郎。興味ない話にはとことん無関心なんだな。そう思っていると、雨造の視線が進行方向はるか先に向けられていることに気づいた。
入り口で田中が何かを叫んでいるのが見えた。叫んでいる相手が誰かと思って見たら、横掘だ。隣には川口も海野もいる。挑発するかのような下品な笑みを浮かべながら、足元に落ちている何かを横掘は蹴っていた。
その蹴った物を見て、雨造が唇を震わせ拳を握りこんでいるのがわかった。俺が雨造と出会っていなければ、それは些細な出来事で終わることだったのかもしれない。
しかし、雨造と出会った俺は違った。横掘が蹴った物――それは無残にも折れ曲がった傘だった。
開いた入口から涼しい風が流れこんでくる。
朝は雲ひとつなかった天気だったのが、気温が上昇するともに積乱雲が発生したのだろう。豪雨が地面を叩きつける音が聞こえてきていた。
その悪天候で傘を壊されたのは、ずぶ濡れになって帰れという宣告を受けたようなものだ。
しかし、俺は騒動の一部始終を見ていないから口出しできない。真相をつかむために、しばらく様子を見ることにした。
「お前さ。俺が気に入らないから濡れ衣を着せるつもりなんだろ。やってないって言ってるだろ。俺がきた時にはお前の傘は折れていたんだよ」
「あなたの笑い声が聞こえたのよ。見たら、あなたが折れた私の傘を持っていた。これ以上の怪しむ理由なんてないわ」
田中の説明に横掘が舌打ちをする。そして、集まってきた者たちを見て叫んだ。
「おい、見せもんじゃねえぞ。関係のない奴らは、あっち行け!」
集まっていた者たちは、騒ぎに巻きこまれるのを嫌ったのだろう。自分の傘を取り、次々と帰途に就いていった。
消しゴムの時もそうだ。横掘は何かと因縁をつけて騒動を起こした後、言い訳をつけて逃げようとする。確かに傘を壊した証拠はないのだろう。しかし、田中の傘を蹴り飛ばしたのは俺が見た事実だ。しかも相手は自分より力の弱い女子一人。横掘は三人だ。
俺が横掘に言おうとした時、雨造が俺の手をつかんでとめた。
「田中の傘。壊したのは横掘じゃない。隣にいる海野って奴だ。あいつがそう言ってる。痛い。苦しい。捨てられたくない。消えたくないって泣いてる」
雨造の話を聞いて俺は動きをとめた。
そうか――雨造は番傘の付喪神。物の声が聞こえるのか。しかもそれが同じ傘の仲間であるのなら尚更だろう。
「海野って奴が、自分の傘が引っ掛かっているのに腹を立てて無理やり引き抜いた。その力で折られたって言ってる。書かれた田中って名前を見て、横掘が笑ったって。濡れて帰るのはいい気味だなって言っていたって」
横掘の性格も含めて考えると、雨造の話は信憑性があるし、嘘ではないのだろう。けれどそれは付喪神の声だ。人には聞こえない。それなので証拠にはならない。俺は歯噛みするしかなかった。
「ご主人さまのお役に立てなかったって……」
雨造はそこまで言って口をつぐむと、大粒の涙を流していた。おそらく、それがあの傘の最期の言葉だったのだろう。
いつもの俺なら田中に「俺の置き傘を貸すよ。俺は濡れて帰ればいいし」と言っていたのかもしれない。けれど、雨造の話を聞いて黙ってはいられなかった。
「海野、お前だろ。壊したのは」
俺が海野にそう言うと、横掘三人グループの肩が同時にはねた。まさか、名前をはっきりと言われるとは思っていなかったのだろう。言われた海野の目がおよいでいる。
「やってない。自分の傘を取ったら、田中の傘が折れていたんだ。はじめから折れていた物の責任なんて俺がとれるかよ」
俺が更に詰め寄ろうとすると、雨造がとめた。何故とめたのかわからずに足をとめる。
すると雨造は大きな舌を出すと、海野の顔を舐めた。続けて隣の横掘の顔も舐める。
「ひいっ!」
見えないものの嫌な感触に驚いたのだろう。海野と横掘は変な声をあげると、自分の顔を押さえながら青ざめた。ここにいるのは俺と田中、横掘たちだけだ。もし、誰かいたのなら、横掘たちの声を聞いて笑ったかもしれない。そう思う妙な声と動きだった。
もし、雨造がとめなかったら、俺は横掘たちに何をしていたのだろうか。奮える拳を見て、俺は怒りを抑えられていない自分に気づいた。きっと、殴り合いの喧嘩に発展していたかもしれない。
雨造は、そんな俺の気持ちを知ってか知らずか、横掘たちを睨みつけながら折られた傘を拾う。
その瞬間、今度は田中も悲鳴をあげた。田中の視線の先を見て横掘たちも声をあげる。
あっ、そうか。俺には雨造が見えるから、傘を持ち上げたってわかるけど、他の奴には雨造が見えないんだった。と、いうことは――
「傘が……浮いてる」
唸るように呟くとともに、川口が先に逃げた。
あいつ。何も雨造にされていないのに、真っ先に仲間を置いていくなんて薄情な奴だな。そう思っていると、横掘と海野も腰を抜かしたような猫背状態で逃げていく。
豪雨というのも関係ない。傘も差さないまま、三人は物凄い勢いで外に飛び出していった。
残った田中はというと俺の背中に隠れながら、雨造が持っている傘を恐る恐る見ている。
「雨造。それ、なおせるかどうか見るから持ってきてくれないか」
俺が言うと、雨造の表情に光が差す。自慢じゃないが、俺は工作には自信がある。完全になおすことはできなくても、どうにかして傘を田中の手元に置いてやりたいと思った。
「雨造って?」
田中が聞いてくるだろうと予想はしていた。雨造に話しかけたのはわざとだ。浮き上がる傘を見て恐怖する田中に、この怪奇現象の説明をするには、雨造の名前を意図的に出して紹介したほうがいいだろうと思ったからだった。雨造も状況を察したのか、俺の次の言葉を期待するように見ている。
「雨造。俺以外の奴に姿が見えるようにはできないか? 無理なら、俺から田中に雨造のことを説明するけど」
「妖力を無駄に使うから、ずっとするのは無理だけど、すこしの間なら……」
妖力とは付喪神の能力を発揮するための力ということだろうか。取り敢えず、雨造の姿が田中に見えるようになるのなら説明も楽でありがたい。
俺が「じゃあ、頼む」と言うと、雨造は首を縦に動かして応えた。
俺には雨造は見えているが、田中には徐々に見えるようになってきているのだろう。俺の腕をつかむ田中の手に力がこもっていっているのがわかる。
「他の奴に見えると煩そうだから、田中にだけ見えるように力を抑えたぞ」
雨造がそう言った時には、田中は既に俺の背中から離れていた。そして、現世にはいないものである雨造の存在に見入っている。
「番傘の付喪神の雨造。俺のばあちゃんの蔵の中に居たんだ。今では弟みたいなものだよ」
「ムッ……おいらのほうが長く生きているから、弟は変だぞ。光輝」
俺の説明に雨造が指摘したことで、緊張していた田中の頬が緩んだ気がした。
「付喪神ってすごい。私、妖怪とか一度見てみたかったんだ」
「そう、おいらはすごいんだ。言葉も話せるし、いろんなこともできるんだぞ」
田中が感動したことで雨造も得意になったのか、胸をそらしながら自分を称賛した。
俺は無残にも折られた田中の傘を見ながら、どうしてやればいいのか模索する。骨は完全に折れてしまっているから傘としてはもう使えないだろう。けれど、布は汚れてもいないし、柄も可愛い小花模様だ。他の使い道もあると思った。
「カバンにしてみるのはどうかな。素材はビニールだし、柄もいいから、加工したら普段も使えると思うよ。何なら、俺がリメイクしてみるけど……いいか?」
「おいら、田中にそいつを使ってほしい。そいつ、田中のこと大好きって言ってたから」
俺の話に続いた雨造を見て、田中は微かな笑みを浮かべる。多分、同じ傘の付喪神だからと感じる部分もあったのだろう。
「それなら、お願いしようかな。私もその傘、お気に入りだったんだ。だから、これからも使えると思うとすごく嬉しい」
「決まりだな。じゃあ、この傘は預かるよ」
ただ、田中の傘の今後は決まっても、雨は降り続けている。豪雨はおさまるどころか、雷も鳴っていた。光った後の音の間隔が長いので雷は遠いと思うが、天気予報では明日まで雨。雨宿りでは濡れるのを回避できない。
「田中、俺の傘貸してやるよ。雨造、よろしく頼む」
「出番か。任せろ。おいら、まだ現代ものには負けないつもりだぞ」
雨造は、その場で宙返りすると番傘の姿に戻っていた。俺は空中で受けとめると、その反動を使って傘を開く。派手な音を鳴らして開いた番傘は、まるで雨造が使ってもらえると、喜んでいる声にも聞こえた。
現代の傘と番傘の共演は他の人から見たら奇妙だったのかもしれない。すれ違った人の視線が少し痛かった。けれど、田中は視線を気にすることなく、終始、笑みを浮かべながら雨造のこと、学校のことを話し続けた。
番傘の姿になったままの雨造が俺に「一緒に、おいらの中に入ればよかったのに」と言いながら、
「おいらの妖力は他にもあるんだぞ。相合傘。文字を変えて愛合傘っていう力もあるんだ」
と、言っていたのは無視した。どうやら、相合傘をしたら恋が実りやすいということらしい。容姿は子供なのに、変なことに興味があるとみえる。
帰宅してすぐに田中の傘を直すことにした。雨造がはやく治してやってくれと煩かったためだ。
まずは傘の布と骨をつなげている糸を切っていく。布を取りはずすと丁寧にそれを水洗いした。
布を切り分けると、手芸をしている母さんの横に行ってミシンを借りる。
とはいえ、このミシンの作業は、手芸好きの母さんがほとんどやってくれた。
興味を示した父さんが缶ビール片手に、一人で作業をしていた俺に話しかけてきたが、その雑談はほとんど聞いていない。
後になって雨造が教えてくれたが、蔵の骨董品を売って買うことができたルアーの話をしていたようだ。骨董品を売って得た収入のことを母さんに悟られないよう、俺と口裏を合わせろということなのだろうなと解釈した。
「出来たぞ。雨造!」
自室で作業を終えた時には、つい声をあげてしまうほど俺は充実感を覚えていた。
雨造も「よかったな。お前」と、姿を変えた仲間に声をかける。そして、傘からカバンになったモノから「ありがとう」とお礼を言われたような気がした。
翌日、出来あがったカバンを田中に渡すと、すごく喜んでもらえた。出来あがりに満足していた俺も鼻が高い。とはいえ、縫ったのは母さんなんだけど。
横掘たちが眉を寄せていたのは、怖い目にあった傘と同じ柄だったからだろう。何となくだが、田中がカバンを持つことで、二度と横掘は喧嘩をうってこないだろうと思った。
ご主人さまのお役にたてたじゃないか。これほどの用心棒はいないぞ。
田中が持つカバンを見ながら、心の中で語りかけてしまった。
「お前たち。チャイムはもう鳴ったぞ。はやく席に着け」
先生の声で一時限目の授業がはじまる。雨造も格好だけは気にしてか、俺の隣の床に座る。学校に来た初日は落ち着かなかった雨造が、今日は田中を気にしてなのか行儀がいい。
見えないというのに、百年以上生きても子供の考えと変わらないんだな。
そうのんびり考えていると、隣にいる雨造の様子がおかしいのに気づいた。座っていたのに、なぜか立ちあがり、ざんばら髪が逆立っている。遠くでサイレンの音が聞こえていた。
「声が聞こえる。モノたちの声だ。この声はあいつだ」
「あいつ?」
切迫した雰囲気におされて、誰にも見えない雨造に話しかけてしまう。
「よく聞こえない。嫌だ。怖い。あと……何て言っているんだ」
雨造は声を必死に聞き取ろうとしているようだった。田中は俺の動きで変化を読み取ったのだろう。じっとこちらを見ているのがわかった。
「怖いって……火事? 光輝、はやく由美子の家に! 由美子の家が火事だ!」
先生が教科書のページを指定した瞬間に俺は立ちあがった。
「おっ、立ちあがるとは、やる気があるな。じゃあ、このページの――」
そのためか、完全に誤解が入っている。今は授業をうけている場合じゃない。急がないと。
「祖父母の家が火事なので帰ります!」
言って教室を飛び出す。背後から皆が動揺する声が聞こえていたが無視だ。すると、隣に気配を感じた。
「田中!」
「雨造くんの声が聞こえていたの。私も行っていいよね」
聞かれはしたが、既に教室を飛び出してきているのだから戻れともいえない。それに田中の厚意を無視することもできない。素早く靴を履いて外に出る。
「方向はあっちだ。距離があるけど走れるか?」
「それは心配しないで。私、陸上部だから、はやさも負けないよ」
女子だからと思っていた俺は田中の走力に驚かされた。男の俺でも並走するのがやっとだ。クラスでも足が遅いわけでもないのに、やはり日夜練習している人は違うなと感じた。
長い坂を駆けあがると竹林が見えてくる。風にのって物が焼ける臭いもしてきた。徐々に人の数が増えてくる。いるのは近所の知っている顔ばかりだ。
「光輝!」
その時、声が響いた。聞いて安心して涙が出そうになる。ばあちゃんは無事だった。
「よかった無事で。俺、ばあちゃんが逃げ遅れてやしないかと……」
「買い物に出掛けていたんだよ。火は使っていないのに何で」
俺は、祖母の無事を確認できて安心したが、祖母の落胆は激しかった。祖父とともに長年連れ添い、住んできた家が燃えているのだ。
納屋のほうから焼けたのだろう。既に消し炭状態になっている。そして、炎は自宅に燃え移り、火の勢いは更に増しているようだった。
「消防車は? まだこないの?」
「電話をしたら他の場所でも火事があって、くるのが遅れるかもしれないと……」
祖母の唇が震えている。逃げてはきているものの、何か切っ掛けがあれば家の中に飛びこんでいってしまいそうだった。
今なら家の中の物を持ってくることが出来るのではないか。
そう思って飛びこむ者も少なくないらしい。火事になった時の死因で一番多いのが一酸化炭素中毒だと聞いたことがある。この火の手ならまだ平気。そう思って家に入ってしまったら、ガスに巻かれて終わりだ。木造家屋だから有毒ガスが出る量はすくないとは思うが、物と引き換えに命は釣り合わない。
その時だ。家の中から重低音が響いてきた。自分の居場所を教えるかのような柱時計の音が。ひとつ、ふたつ、みっつと数を刻むうちに祖母が歩を進める。
「戻ったら駄目よ。おばあさん」
祖母の行動の変化を知った田中の声が響く。近所の人にも抑えられ、祖母はその場で崩れ落ち、膝をついた。
バケツリレーがはじまっているが、人の手だけでは猛火を抑えることなどできない。柱時計が時を刻む音は既にとまっていた。
「あいつが泣いている。あと一年なんだ。あと一年で付喪神になれるのに」
雨造が歯噛みしながら言う。そして、炎上する家を見ている目は、炎の色を受けて更に赤くなっているように見えた。
「光輝……おいらを使ってくれ」
押し殺したような雨造の声。その視線は炎に一点集中していた。
「使えって?」
言った意味がわからずに問い返したところで気づいた。祖母が言っていた雨が降らなかった日のことを。祖父が番傘を差して歌ったという話を。
「雨を降らせることができるんだな?」
雨造が首を縦に振る。男同士の会話だ。それ以上の言葉はいらなかった。