「「グッドモーニング」」
お客さんが入って来ると、スタッフが頭を下げて挨拶をする。
「おはようございます」
私も日本人客を見つけ、足を止めて会釈をした。
ここはマレーシアのリゾート地に立つ5つ星ホテル。
街中ではないが、空港も近くにあり交通の便はいいところだ。
もちろんお値段はそれなりに張るけれど、人が少ない分のんびりできてセレブにも人気の場所。実際私も都会の喧騒から逃げ出すためにここへやって来た。
ただし、私の場合はお客さんとしてではなくて、
「晶、奥のテーブルを片付けてくれるか?」
「はい。わかりました」
マネージャーに言われテーブルのセッティングをする私は、このホテルのラウンジで働く日本人スタッフ。
名前は星野晶。23歳。身長155センチと小柄で顔も童顔のために時々子供と間違えられるけれど、れっきとした大人だ。
海外とはいえこの外見のお陰で街を歩いていてもナンパされることもないのが、かえって気楽で気に入っている。
そんな私も日本を出てマレーシアにやって来て2か月。ここの生活にも大分慣れた。
「グッドモーニング」
片づけが終わり出来上がったばかりの席に着いた男性に挨拶をすると、
「おはようございます」
日本語の返事が返ってきた。
ここは日本の財閥が出資して建てた日系のホテル。
それだけに、スタッフもお客さんも日本人が多い。
街までは車で1時間だが、ヘリの送迎を利用すれば15分ほどで移動できることもあり観光客だけでなくお金持ちのビジネスマンの利用も少なくない。
実際今席に着いた男性客もそんな感じで、秘書らしき男性を伴っている。
「コーヒーとオレンジジュースをお願いします」
男性の側まで行くと、先に声をかけられた。
「地元産のハーブティーとシェフ特性のスムージーもお勧めですが?」
私がここで働くようになってからこの男性を見かけるのは3度目。
きっと仕事でやって来ているビジネスマンなのだろうけれど、180センチを超える身長にいかにも育ちのよさそうな端正な顔立ちと、時々見せる鋭い眼光が印象に残っていた。
そして、男性が注文するのはいつも同じメニューだから、せっかくなら色々なものを楽しめばいいのにと勧めてみた。
しかし、
「いえ、コーヒーとオレンジジュースをお願いします」
どうやら男性の気持ちは変わらないらしい。
「かしこまりました」
これ以上口を出すこともできない私は、飲み物の他に朝食の注文を聞いて席を離れた。
リゾートに立つ高級ホテルとはいえ訪れるお客さんも色々で、中には少ないけれどトラブルを起こすような人もいる。
その日、朝の一番忙しい時間にやって来た日本人客もそんな人だった。
「君、日本人?」
そう言ってバイト仲間の優香ちゃんに声をかけたのは、Tシャツに迷彩柄の短パンを履いた若い男性客。
一応このホテルはドレスコードもあるのだが、男性の足もとはサンダル履きだ。
「優香ちゃんって言うの?」
名札に書いてあった名前を見つけ、勝手に名前呼びを始めた迷彩パンツの男性は20代前半だろうかほぼ私と同世代に見える。
ちょうど朝の込み合う時間だけに忙しく働いている優香ちゃんを何度も呼び止めて、しつこく話しかけている。
「ねえ、優香ちゃん」
グラスが汚れているとか、フォークやナプキンが落ちたとか言って優香ちゃんを呼び止める男性。
優香ちゃんも一生懸命逃げようとしているけれど、誰が見たって男性の行動は嫌がらせをしているようにしか見えない。
「すみません、やめていただけますか?」
遠く自国を離れ知り合いのいないと土地に来て気持ちが大きくなっているのかもしれないが、こういう迷惑行為には毅然とした態度で臨まなければいけない。
そんな思いもあって私は注意するつもりで近づいた。
しかし、男性は確信犯のようだった。
「え、何言っているの。僕は客だよ?」
今度は私に向かってきた。
「ですが、他のお客様の迷惑にもなりますので」
「何だよ、偉そうにっ」
こんな時、いつもならマネージャーがすぐに来てくれるのに、今は他のお客様の対応で手が離せそうもない。
周囲の人もまだトラブルに気づいてはいないが、優香ちゃんはすでに怯えた顔をしている。
困ったな。何とかしないといけないんだけれど・・・
その時、
「あっ」
ガラスのぶつかる音がして、隣に立っていた優香ちゃんの震えた声がした。
恐怖のあまり震えだした優香ちゃんの持っていたトレーに乗せていたグラスが倒れ、はずみでこぼれた水が男性に飛んだ。
「すみません」
優香ちゃんは咄嗟に謝ったけれど、
「どうしてくれるの?濡れたじゃないか」
なぜか嬉しそうに立ち上がった男性は、距離をとろうと後ろに一歩後ずさりした優香ちゃんに詰めよる。
「申し訳ありません」
何度も頭を下げるか優香ちゃん。
濡れたと言っても、実際には男性の腕にしぶきが飛んだ程度。
謝って終わるくらいの話だと私も思っていた。しかし、男性は引きそうにもない。
「この後出かける予定のなんだよ。それなのに、困るじゃないか」
「申し訳ありま」
優香ちゃんが再び謝る前に、男性の手が背中に回った。
「キャッ」
かすれた悲鳴が、小さく聞こえた。
うーん、もう無理。我慢できない。
いくら客とはいえ、あまりにもひどい。
私はトレイに乗せていたコーヒーを手に持ち、男性の前で手を放した。
コーヒーカップは床に落ち、ガチャンと大きな音を立てる。
そして、計画通り男性の足もとにコーヒーがかかった。
「うわぁ、何するんだっ」
「申し訳ございません」
男性の声に反応するように深く頭を下げたものの、気持ちのこもらない私の謝罪。
「お前、何するんだっ」
当然男性が大きな声で怒鳴るけれど、この騒ぎに気付いた周りの視線が気になるのか周りをキョロキョロしている。
そもそもここは5つ星ホテルのラウンジ。
それなりにお金もかかるし周囲にいるのもお金持ちが多いから、そんな場所で騒ぎを起こせば当然白い目で見られてしまう。
「お客様、大変申し訳ありません。すぐにお着替えを用意いたしますので、どうぞこちへ」
その後にらみ合いを続ける私と男性のもとに騒ぎを聞きつけたマネージャーが駆けつけ、男性をどこかへ連れ去っていった。
日本資本の会社とはいえ、ここは海外。
能力主義で、何かしでかせばすぐに切られてしまうのも事実。
もちろん私だってそれを承知で勤務してはいたのだが、現実はやはり厳しかった。
「晶さん、ごめんなさい」
「いいのよ、自分がやったことだもの。優香ちゃんは気にしないで」
「でも・・・」
日本人男性客との騒動から数日後、私はホテルを首になった。
もちろん騒ぎを起こした男性客の行動にもかなり問題がありそのことを非難する声もあったが、ホテル支配人の鶴の一声で決まってしまった。
これは後になってわかったことだが、騒動を起こした男性客は大物政治家の息子だったらしいから、おそらく色んな忖度が働いての結果だったのだろう。
「じゃあね」
バイバイと仲間たちに明るく手を振り、私は社員寮になっていたマンションを後にした。
そして、南国マレーシアの夕方。
まるでバックパッカーみたいに大きな荷物を背負い、ボロボロのスニーカーにジーンズとTシャツ、伸ばした髪は一つに括って一見少年のようにも見える私は結構街並みに同化しているように見える。
これも一つの防犯対策だろうと、私は化粧もせずに街を歩いていた。
「さあ今夜はどこに泊まろうかしら」
大通りから1本入った裏路地を見渡しながら、私は首を傾げる。
今私の手にあるのはなけなしの給料1ヶ月分と10日後の東京行き航空券。
このあと10日間もマレーシアでどう過ごすのかって問題はあるけれど、これがホテルから渡された退職金であり私に残された全財産だ。
「さあどうしようかな」
普通に考えればどこか安宿で出国までの時間を潰すのが最善に思えるが、日本に帰ってからも行くところのない私は少しでもお金を残しておきたい。
もっと言うならば残された10日間にバイトをしてお金を増やしたいと思っている。
『でもねえ・・・』
現地の言葉もわからず、必要最低限の英会話がやっとの私にできるバイトなんてたかが知れているし・・・
そのとき、色々と考えならが歩みが遅くなった私の背中をドンッと後ろから押されたような衝撃があった。
『あ、すみません』
きっと通行の邪魔になったのだろうなと頭を下げ少しだけ端に寄る。
ぶつかったと思われる人は何の反応もせずに追い越していった。
いつまでのこうしていても仕方がないから、とりあえず今夜の宿を探そう。
確かこの近くに日本人に人気の宿が・・・
スマホを取り出して宿の場所を確認しようとリュックを肩から降ろした瞬間、
「嘘、ヤダ」
私は固まった。