「それに、内向きの仕事だけじゃ、将来所帯を持つときに困るからな。主とも話し合ってそう決めたのだ」
「ふぅん」
清香は何の気なしに相槌を打った。
けれど、何故だろう。体温が何故か、じわじわ、じわじわと上昇していく。彼の言葉が時間差で効いているのだ。
(バッカじゃないの、私! ……所帯って、そういうことじゃないから!)
恐らく崇臣としては、何の気なしに『将来所帯を持つ』なんて発言をしたのだろう。
それは別に清香との未来を指しているわけではない。断じてない。
今の段階で清香が崇臣との未来を夢見るにはあまりに早すぎる。けれど、高鳴る心臓は自分では制御できない。清香はダラダラと汗を流しながら、平静を装った。
「……清香はどうなんだ?」
「へ⁉」
あまりにも唐突な質問。清香が何を考えているか、バレてしまったのだろうか?
動揺を隠せないまま、清香は素っ頓狂な声を上げる。崇臣はほんのりと首を傾げつつ、彼女の顔を覗き込んだ。
「将来、何をするか考えているのか?」
「――――――私の将来?」
どうやら崇臣との未来を妄想していたのがバレたわけではないらしい。
けれど、なんち答えれば良いのやら。呟きながら、清香はハタと立ち止まった。
想定内だったのか、崇臣は特に驚くことも無く、清香の隣で立ち止まる。
「私……は」
必死に頭を巡らすものの、次の言葉は清香の口を吐いて出ない。
(そんなこと、考えたことなかった)
前世では芹香の側にいることが清香の仕事だった。芹香のことを一番に考え、彼女のために働いていればそれで良かった。
その上で少しばかり書きものをして、たまたまそれが評価された。結果、それが仕事になった。
けれど現世ではどうだろう。
清香は芹香の妹だ。妹に仕えるなんてこと、世情を考えれば現実的ではない。今では女性が働くのは当たり前だし、芹香のために働くなんてことを両親が承諾するとも思えない。
第一、それでは収入――外貨が得られない。生活ができないのだ。
それでは意味がないし、仕事とは呼べないだろう。
(それに、あの頃と今とは違うから。私程度の文章力じゃ、職業作家としてはやっていけないはず)
人気作家として活躍した記憶は清香に残っているし、文章力だってあの頃と変わらない。
けれど、あの頃と今とでは状況は随分違っている。
平安の前世において、読み書きのできる人の数は限られていた。貴族や一部の金持ちしか、そういった教養を学ぶことができなかったし、紙自体が高級品だった。
だから当時は、どんなに素晴らしいことを思いついても、それを形として残すことができない人が一定数存在したのだ。
しかし、今では誰もが義務教育の間に読み書きを学び、己の考えを表現する場が与えられる。書くことも読むことも当たり前の時代なのだ。
そんな中で清香が、自分の文章力に自信があると胸を張って言うことはできなかった。
「……まぁ、まだ焦る必要もないだろう」
崇臣はそう言って、清香の頭をポンと撫でた。それは、いつもの憮然とした表情でも、意地悪な笑顔でもない。どことなく優し気な表情だった。
「うん」
返事をしながら、清香は再び歩きはじめる。靄がかかっていた思考に一筋の光が差したかのような、そんな気分だった。
(それにしても本当に、将来なんて……考えたこと無かったな)
目を瞑り、天を仰ぎながら清香が笑う。
気ままに生きているようでいて、実は崇臣は、きちんと先のことまで考えながら働いていた。彼自身と、彼の大事な存在である東條のために。
そしてそれは、清香に大きな気づきを与えてくれた。
(できれば私も、芹香のために働きたいけど)
どうすれば――どんな形であればその願いを実現できるのか、残り少ないモラトリアムの中で考えていかねばならない。そう自覚できたことはとても大きい。
それだけではない。
一人では潰れてしまいそうな思考の渦に呑まれたとき、そこから救い上げてくれる存在――それが崇臣なのだと気づくことができた。
(ホント、何度目なんだろう。こいつに救われるの)
そっと崇臣を見上げつつ、清香はきゅっと唇を引き結んだ。
(それなのに、私ときたら)
清香は今日、シャツすら弁償させてもらえなかった。
親の庇護下にある高校生と言えばそれまでだが、清香としてはそこで終わりにしたくない。
(……自分で働いた金じゃないからダメなわけよね)
先ほどの崇臣の言葉を反芻しながら清香が唇を尖らせる。
(折よく今は夏休みだし)
何か新しいことをはじめたり、将来のことを考えるにはピッタリな時期だ。その上で崇臣をアッと言わせられるならば、これ以上のことは無い。
「おまえ、何か企んでるだろう?」
「……別にぃ?」
問いかけにそんな風に答えながら、清香がニヤリと笑う。
小さな決意を胸に、清香は力強く次の一歩を踏み出したのだった。
小さな建物に、レトロな雰囲気の漂う内装。町の喧騒から少し離れた、程よい立地の小さな古書店に清香はいた。
商品である本はどれも、日焼けしてるし古びている。年数を重ねた紙特有の香りに包まれながら、清香は大きく深呼吸をした。
(ん~~~~落ち着くわぁ)
鼻腔を擽る古い紙の匂いというのは本当に堪らない。清香はウットリと瞳を輝かせる。
元来、洗練されたものを好む清香だが、それだけが全てだとは思っていない。
ここには専門的な本も、新刊も揃っているわけではない。いわば寄せ集めでできた空間だ。
洗練とは真逆の道を行くこの古本屋。けれど、子どもの頃から何度も通っている、清香のお気に入りの場所の一つだった。
(まさかここで働くことになるなんてねぇ)
清香がこの店でアルバイトを始めてから1週間。鼻歌を歌いつつ、清香はぐるりと店内を見渡す。
崇臣とのデートの後、清香は早速アルバイトを探し始めた。自分で稼いだお金で、崇臣にプレゼントを購入するためだ。
けれど、夏休み限定、それも高校生を受け入れてくれるような店というのは中々どうして見つからない。
(さて、どうしたもんか……)
途方に暮れた清香は、気分転換のためにこの店を訪れた。
既に絶版になった書籍や、隠れた名著、学術書なんかを探すのが、清香の趣味の一つだからだ。
「おぉ! 清香ちゃん、久しぶりだねぇ」
「おじさん、お久しぶりです」
店主は狸のような顔をした、心優しい老人だ。名を草野という。
彼は子どもだからと嫌な顔をせず、幼いころから清香のことを可愛がってくれていた。
「今日も暑いですね。元気にしてました?」
「それがねぇ、年のせいかなぁ……最近、夏の暑さが随分堪えるんだよ」
店主は困ったように笑いながら、トントンと腰を叩いてみせる。
「そうでしたか……それは心配ですね」
清香は目に付いた本を何冊か手に取りながら、店主のことをそっと見つめる。
彼と出会ってから既に10年近く。単純に年齢のせいもあるだろうが、確かにここ最近の店主は、夏はいつも辛そうにしていた気がする。心配で、清香の胸がキュッと軋んだ。
「実はね、近々店を閉めようかなぁと思っているんだよ」
「えっ!? 嘘……そんな…………閉めるだなんて」
(ショック! 私のオアシスが……!)
眉を八の字に曲げ、清香がガックリと肩を落とす。腕に抱えた本たちが、ズシリと重く感じられた。
「なぁに、ずっとじゃないよ。夏の間だけのことさ。
常連さん達には申し訳ないけど、身体が言うことを効かないからねぇ」
元々ここは、客の多い店ではない。けれど、清香を含め、常連客がたくさんおり、店主はそんな常連たちのために、80歳を過ぎた今でも毎日店を開け続けている。
「そっかぁ……だったらアルバイトとか募集してみたら?」
「う~~ん……夏限定って言うのも申し訳ないし、あんまりお給料はあげれないからねぇ」
店主の言葉に清香はそっと唇を尖らせた。いつも人を気遣う彼らしいセリフだ。
そういえば以前、この店で清香が本を売ったとき、相場よりもずっと高い値段で店主は買い取りをしてくれた。
けれど、売値を釣り上げることはなく、買取額とほとんど変わらない値段で売りに出していた。これでは店主に利益は殆どない。人を雇う余裕などないはずだ。
(でもなぁ、惜しい……惜しすぎる)
清香は唇を尖らせながら、心の中で唸り声を上げる。
一時的なこととはいえ、清香のオアシスが失われてしまうのはあまりに忍びなかった。何とかならぬものかと、必死に考えを巡らせる。
(ん?)
そして、清香はふと気づいた。
「需要と供給がピタリと合致した人物がここにいるじゃない!」
「需要と供給? 清香ちゃん、一体なんの……?」
驚いた店主が徐に首を傾げる。清香は小さく笑うと、呆気にとられたままの店主の手をそっと握った。
「おじさん! それ、私に任せてもらえないかな?」
店主は目を丸くしながら、清香をまじまじと見上げている。
「それって?」
「アルバイト! 私じゃダメかな?」
清香が尋ねると、店主は更に目を丸くし、それから優しく微笑んだ。
「働いてもらえるのが清香ちゃんなら俺も嬉しいよ? でもねぇ、お給料はそんなに出してあげられないし……」
「大丈夫! 子どものお駄賃程度っていうか、何なら一銭も貰えなくたって私は良いの! 実は諸事情で働ける場所を探してたんだけど、夏休み限定、高校生可って所が中々無くって」
元々清香は、『働いて得た対価』という大義名分が欲しいだけだ。仮に店主から給料が貰えずとも、働いたという事実があり、給料を貰ったのだと崇臣に言い張ることができればそれで良い。これなら崇臣は、清香からの贈り物を受け取るだろう。
「それに、大好きなこのお店で働けたら幸せだし!」
清香がそう言って満面の笑みを浮かべる。
この店の全てが、清香にとって最高の環境のように思えた。
大好きなものに囲まれて、仕事の内容が、自身が心からやりたいことだと胸を張って言うことができて。
将来、清香がやりたいこと――――仕事にも繋がっているような気がしてくる。
店主はニコリと微笑むと、清香の手をそっと握り返した。
「よし! それじゃあ清香ちゃんにお願いしようかな」
「はい! よろしくお願いします!」
こうして清香は、お気に入りの古書店の臨時店員という地位をゲットできたのだ。