「大丈夫?ゆうちゃん、顔色悪いけど」
「あ、ごめん、大丈夫。ちょっと疲れたからかな……」
「そう?ご飯食べて、早く寝たら?」
「うん、そうさせてもらうよ」

 着替えるためにリビングを離れると、どっと疲れが襲ってきた。もう何もかもしたくない。このまますべてを放棄してしまいたかった。

 禄朗が触れた唇に指を這わす。Allyを喜ばせた口で優希を翻弄する彼に、たまらなく欲情した。あのままめちゃくちゃに抱いてほしかった。

 お前はおれのものだろ__そう昔と変わらない声で優希を求めてほしかった。

「……やめよう」

 いつまでも囚われ続けても仕方のないことなのに、もしあの時という未練がかすめていく。もしあの時、明日美を捨てて禄朗を追いかけていたら……今ごろ隣で笑っていたのは優希だったのだろうか。

 いや、と思い直す。

 もしもあの状態の明日美を捨てていたら、きっと優希は自分を許せなかっただろう。自責の念にかられ禄朗ともうまくいっていなかった。結局破局は免れなかっただろうと思う。

 花の笑顔を見ることもなく、あの子がこの世に存在しなかったかもしれないと思うと耐えられない。すべてこれでよかったのだと思いなおす。

 どっちみちもう答えはでていて、すれ違った道をやりなおすことは不可能なのだ。どこでどう間違えたのかいくら考えても答えは出ない。




 そして仕事中に電話が鳴ったのは、それから少し経ってからのことだった。
 ポケットから取り出し画面を見ると、知らない番号だった。そういえば禄朗からの最初の連絡もこんな感じだったなと思い出す。まさか、という淡い期待を持ちかけて苦く笑った。いつまでたっても卒業できないでいる。

 通話ボタンを押すと流暢な英語が流れてくる。思わずひるんでしまった。クライアントに英語を話す人はいなかったはずだ。ためらいつつ応えようとすると、「優希?」と名前を呼ばれた。

「I'm Ally」
「あ、Ally……?」

 禄朗のパトロン、今のパートナー。柔らかな金髪と細くしなやかな体を思い出す。若くてきれいな禄朗の恋人。

 Allyは話があるから会えないか、と優希に伝えてきた。あの時の景色が目の前をちらつき、交わる二人の濃厚な息遣いがよみがえってきた。

 優希だけのものだったはずの所にいる彼に、会いたくはなかった。みじめになりたくない。まだ傷はふさがっていない。

 断ろうと口を開きかけたら、それを遮るように待ち合わせの場所が告げられ一方的に切られた。

 いったい何の用があるというのか。優希は重たい気持ちを引きずりながら大きく息を吐いた。


 待ち合わせのバーへ行くと、すぐ目を引くAllyの美貌にため息がでた。店内の客もチラチラと視線を送り、彼の挙動を追いかけている。まるでモデルのような美しい顔立ちと、スタイルだけじゃない強いオーラに人目を引くのは当然だろうと思った。

 近づくと優希の存在にすぐに気がつき、こっちだと手を挙げた。

 卑屈にならないよう、ぐっと力を入れて背筋を伸ばす。張り合ったところでどうしようもないが、気後れしてしまう自分をなんとか励ましたかった。

 「待たせてすみません」と謝ると、問題ないと首を振った。
 カウンターに腰掛けてグラスをゆらす彼は、切り取られた一枚の写真のように完ぺきだった。優希が失った若さと美貌を手にし、それを惜しみなく禄朗にささげている。

「移動していい?」

 Allyはカウンターの中の人に声をかけると、慣れた足取りで奥のほうへ向かう。歩いているだけなのにモデルの様になり、店内の客がほうっとため息交じりにAllyを見つめている。

 バーの奥は天蓋で覆われたボックス席がいくつか適度な距離をもって置かれている。その一つに入り込むと、まるで秘密の世界に二人で足を踏み入れたようになった。

「こっちのほうが話しやすいから」

 Allyはソファに体を沈めるとそばにいたバーテンダーに声をかけ、優希にも飲み物を持ってくるようにと指示した。

「座れば?」

 つい立ったまま事の成り行きを見守っていた優希は、慌てて腰を下ろす。柔らかなスプリングがその体を優しく受け止める。

 静かにジャズの流れる雰囲気のいいお店だった。内装も重厚でいながら客を圧迫せず、他人を気にせず過ごすことができそうだ。優希の生活にはない贅沢さがここにはあって、Allyは当然のようにその景色になじんでいた。

 まもなくお酒が運ばれてくるとまるで夜空のような綺麗な青色をしたカクテルだった。口に含むと甘みの後にシャープな強さが口の中に広がった。

 彼はきれいな日本語で自己紹介をし、禄朗の先生と自分の父の仲がいいのだと説明した。だから禄朗がアメリカに来た頃から知っている、と続ける。

「禄朗に最初に出会った時、ぼくはまだ子供で……でも禄朗のことがすごく大好きだった」
 
 でも禄朗にはずっと好きな人がいたみたいだ、とAllyはこぼした。

「誰なのって聞いたら悲しそうに笑ってさ、ここにはいないよって。でも好きで諦められないんだ、バカだよなって。それって優希のことだったんだよね?」

 確認するかのように強くぶつけられた視線には、優希に対する嫉妬が感じられた。

 禄朗が望んでアメリカで過ごしていた時間も、優希の裏切りによって離れてしまってからも彼は優希のことを想っていてくれた。それはなんて幸せなことなんだろう。

 だけど今はもう、それさえ失ってしまった。
 優希の知らないアメリカでの禄朗の姿に、思いをはせる。どんな生活だったのか、どんな風景を見て、どんな暮らしをしていたのか。優希にはわからない彼の生きていた時間。それを共有していたのは、目の前にいる彼なのだ。

「もう終わったことだよ」

 さよならが二人を隔ててしまった。

 そう答えると、Allyは不思議そうに首を傾げ納得がいかないのか唇を尖らせた。そんな仕草もいちいち様になり、苦しくなった優希は瞳を伏せた。

「そうかな。だってまだ禄朗はきみへの思いを断ち切ってないように見えるけど」

 だがAllyは淀みのない日本語で会話をつづけた。禄朗のために覚えたと言っていたが、これだけ話せるようになるにはかなり努力したはずだ。どれだけ禄朗を想っていたのかが伝わってくる。

 そのAllyの言葉には不安といら立ちが含まれていた。

「どうしてぼくがきみの番号を知ったのかわかる?」

 ふるふると首を横に振ると、Allyは不満そうな声色を出した。

「禄朗の携帯にはまだきみの番号が残っていた。ずっと繋がれたままなんだよ、むかつくことにさ」

 くやしさを飲み込むようにぐっとグラスのお酒をあおると、先を続ける。

「別れた男の連絡先を大事にしてる禄朗にもむかつくけど、それを隠そうともしないことにも腹が立つ。ぼくに見られたって全然平気で怒りもしない。だからなに?ってその程度でさ……彼は何も怖くないんだ。きみ以外に失うものがないから、これ以上何をなくしたって平気なんだ。ぼくがそれで嫌な思いをするってことまで気が回らない」
「まさか」
「こんなこと嘘ついてなんのメリットがあるっていうんだよ。それに……ほら」

 Allyはおもむろに優希のあごをつかむと、グっと上を向かせた。
 目を覚ますと強い消毒薬の匂いにつつまれていた。動かそうとした全身がものすごい痛みに襲われ、思わず(うめ)いてしまう。

 それを聞きつけたのか、明るい声が優希の名前を呼んだ。

「斎藤さん。目が覚めましたか?」
「……ここ、は」

 朦朧としたまま辺りを見渡すと、真っ白くて清潔な一室にいた。ベッドに寝そべった自分が、細いチューブに繋がれているのが視界に入る。

「斎藤さんわかりますか?」

 顔を覗き込んできた看護師が柔らかく笑みを浮かべながら声をかけてくるのに、うなずいて答える。ということは、病院のベッドにいるのか。記憶があいまいに途切れている。

「どこか痛いところはありますか?具合は?」
「大丈夫です……痛っ」

 体を起こそうとしてもままならず、ふたたび壊れそうな痛みが全身を貫く。

「動かなくて大丈夫です。今ドクター呼んできますからね」

 ほどなくして若いドクターが優希のもとへやってきた。不安を拭い去るためだろうか、あえて軽い口調で声をかけてくる。

「斎藤さーん、わかりますか?」
「はい、大丈夫です」
「体、見させてもらいますよ」

 ドクターはカーテンで仕切り二人だけの空間を作ると、体の外の傷だけでなく奥深く体内の傷までじっくりと診察した。さすがにお尻を突き出す形での内診に抵抗を示したが、恥ずかしいと思う暇もなく検められてしまった。
 「斎藤さん」と診察を終えたドクターは、淡々と今の容態を説明した。

「骨折などの大きなけがは見当たりませんでした。打撲や打ち身などはもう少ししたら落ち着いてくると思います。今は色が強く出ているので痛々しく見えますが、あと少しで目立たなくなるでしょう。ですが」

 声を潜め、(おもんぱか)る口調で続けた。

「体内の傷は結構な痛手を負っています。裂傷もひどいですし、普通異物を入れるべきじゃない場所に暴行を加えられているダメージはかなり大きいと思います。ただ括約筋(かつやくきん)などへの負傷は見受けられないので、障がいなど起こらないでしょう。それだけが不幸中の幸いだったかもしれませんね」

 ドクターはそこまで言うとほんの少し言葉に詰まり、優希へ向き合った。

「救急車で運ばれてきたときは全身震えて危ない状態でした。出血も多く、暴行事件として警察に通報しようかと思うくらいでした。でもあなたはそれだけは絶対にやめてほしいと訴えましたね。こちらもご本人の要望だったので通報しませんでしたが……斎藤さん、これはレ◯プ事件じゃないんですか?」

 優希は両手を握り締めて、だまりこくった。

 レ◯プで違いない。だけどこのことが公になったら禄朗に迷惑がかかってしまう。それだけは絶対に避けたかった。

「違います」
「斎藤さん……あなたの体から微量の睡眠薬と睡淫効果のあるものも検出されました。男性でレ◯プされた方はみんな恥ずかしくて、知られたくないと拒みます。ですが恥ずかしいことじゃないんですよ。年間に何件も発生しています。珍しいことじゃないんですよ」
「違います。レ◯プじゃありません。合意の上の行為でやりすぎました」
 他の男たちのことは知らない。だけどAllyとの間にだけは、一瞬だけつながりができたと思えた。彼と抱き合ったあの瞬間、Allyを愛したと言っても過言ではないくらい強く結びついた。

「ですが」
「本当です。ご迷惑をおかけして申し訳ありません、ですが、合意です」

 きっぱりと告げた優希にドクターは息をつき、「そうですか」とうなずいた。

「斎藤さんがそうおっしゃるのならそうなんでしょう。こちらとしてもご本人の意思がなければどうしようもありませんので……性病などの検査もしましたが、すべて陰性でした。それはご安心ください」

 それを聞いて優希はほっとした。さすがにあんなに不特定多数に襲われたのだから、なにかしらの障害が発生したらというのは怖かった。

「ご迷惑をおかけしました」

 もう一度頭を下げると、ドクターは「一応ですが……」と言葉をつづけた。

「もし考えが変わったり何か思い出したりして証拠が欲しくなったら、おっしゃってください。こちらもできる限りのご協力はします」
「ありがとうございます」

 最悪の事態だけは免れた、と優希は安堵の息を吐いた。警察にも通報されず、これだけのケガで済んだのなら不幸中の幸いだ。この先大きな障害になるものもないなら、あとは傷を治せばいいだけ。

「ご家族にも連絡をしていますので、とりあえずこのまま体を治していきましょうね」
「はい」

 状態が状態だからか、優希に与えられていたのは小さめの個室だった。真っ白で清潔で静かな部屋に一人きりになると、大きな溜め息が漏れた。

 自分一人分の呼吸だけが聞こえる静寂に、ようやく体から力が抜けていく。
 Allyはどうしただろうか。黙って禄朗のそばにいてくれているだろうか。こんな手段に出るしかなかった彼の苦悩を考えると、胸が痛んだ。

 そして明日美と花にも。


 病院に運ばれたと聞いてびっくりしただろう。怪我をした優希に、怯えていなかっただろうか。余計な心労をかけてしまった。どうしていつも自分はこんなに人に迷惑をかけることしかできないのか……優希は歯がゆくて仕方なかった。

 いつだって大事な人を幸せにしたい、そう思っていただけのはずなのに。




 想いは千々に乱れたけど、ベッドに横になると強い睡魔に襲われた。さっき点滴の交換に来ていたナースは、「寝るのが一番だから、休める薬も入っている」と言っていたのでそのせいもあるのだろう。意識はあっという間になくなった。

 うつらうつらと目を覚ましては痛みにうめき、だけど再び睡魔に襲われるという時間を繰り返す。目を覚ますたび近くに誰もいなくて、この世で一人ぼっちのような気分だ。
 
 だれも優希を愛さず、たった一人で生きていく。そんな妄想を繰り返してはそれでもいいか、とほっとする気持ちになった。もう誰のことも傷つけたくない。



 幾日かそれを繰り返し、飽きたかのように強い空腹で目を覚ました時、今までにないくらい頭がクリアになっている。

 体の痛みもだいぶ引いている。ナースコールを押すとすぐに看護師がやってきて、安心したように笑いかけた。

「傷の治りもいい感じですよー。この分だと退院までそんなにかからないかもしれませんね」
「そうですか」
「じゃあ、食事運んできますから!しっかり食べて早く元気になりましょう」

 ベッドサイドに運ばれてきた食事の匂いを嗅ぐと、今までにないくらいの強い食欲を感じた。死にかけた優希の体が「生きたい!」と必死に叫んでいるようだ。
 普段より多めの食事をとり、回復が進んでくると一人でも歩けるようになった。まだ後孔は鈍い痛みを発するけど、ほんの少し前まで動けなかったことを考えると、人の体は案外たくましいものだと感心する。

 暇つぶしに売店で雑誌を買ってパラパラとめくっていたら、小さな記事が目を止めた。それは日本人写真家の個展の成功を記したものだった。写真を撮るくせに自分が撮られるのはあまり好きではない禄朗が、ぶぜんとした表情でそこにうつっている。傍らにはAllyの姿もある。

 この様子だと、禄朗にあの事件はばれていないということだろう。ほっとした。

 これでいい、と優希は思った。
 
 禄朗の成功を何より祈っている。その為にAllyの力が必要ならば、いつだって優希は身を引く。せめて、影ながら応援していたい。望むのはそれだけだ。



 一方で、優希がしっかりと覚醒してから数日たつというのに、明日美は姿を見せなかった。
 
 花にこんな姿を見せたくないからだろうか。どう説明したらいいのかわからないし、誰一人のお見舞いもない方がかえって気楽だったが、明日美にしては珍しいことだと思う。すぐにでもかけつけてきそうなものなのに。

 そんなことを考えていたからだろうか。ほどなくして見舞客が訪れた。それは明日美の両親だ。

「斎藤さん」

 近くに住んでいるとはいえ、あまり会う機会のなかった明日美の両親。彼らが険しい顔つきで、ベッドに横になっている優希の名前を呼んだ。

「お義父さんにお義母さん。すみません……お見苦しいところを」

 だらしないところを見られたくないと起き上がっても、彼らは病室のドアのそばに身体を固くしたまま立ち尽くしている。イスを勧めても頑なに近寄ろうとはしなかった。

「明日美と花は」
「今は私共の家に住んでいます」

 口を開いたのは明日美の母だった。険しい表情は崩れない。

「体調がだいぶ良くなったと聞きましたが、明日美も花もこちらによこすつもりはありません」
「え……」

 それは花に刺激を与えたくないということだろうか。困ったように笑う優希に、視線を合わせず言葉を続ける。

「もう会わせるつもりもありません。明日美にはあなたと離婚するように、と話しています」