紙芝居の作成は思ったよりも大変だった。なんせ、普段やっている仕事とは描き方が違う。私は絵具なんてものを久しぶりに棚から引っ張りだし、毎日コツコツと絵を描き続けた。
絵は二週間ほどで完成した。早速それを持って図書館に行くと、春樹くんは少し驚いていた。私が大きな画用紙が入るようなケースを持っていたからだろう。
本当はもっと遅い完成予定だった。ただ、描いていると楽しくなってつい筆が進んでしまっただけだ。
「早いね」
私はだよね、とちょっと自分に呆れた。まるで彼に会いたいから早く書き上げたみたいだ。
「ごめん、途中で見せるべきだったかな」
「いや、大丈夫。ちょっと見せてもらっていいかな」
私はケースから紙芝居を取り出して彼に渡した。画用紙は四つ切りサイズ。絵はアクリル絵具と色鉛筆を使って仕上げている。子供たちが楽しめるように、カラフルな色合いで描いてみた。
彼は一枚一枚ゆっくりとそれをめくりながら確認していった。私はドキドキしながらその様子を見守った。まるで試験の合格発表を待ってるみたいな気分だ。
「うん、やっぱり篠塚さんうまいね」
私がまじまじと様子を伺っていると、それに気付いた彼は困ったように視線を下げた。
「ごめん。語彙力なくて」
「ううん……よかった。これでなんとかなりそう?」
「うん。助かるよ。これで俺の下手な絵でブーイングされることもなさそうだし」
「作画、北原春樹にしても大丈夫だよ」
私はクスクスと笑った。
「あ、どれぐらいかかった?」
材料の話だろうか。以前彼は請求できるようなことを言っていた。
「それ、プライスレスなの。全部うちにある画材で作ったから」
彼はそうか、と言いながら困った顔をした。画用紙も絵具も原価なんて知れているから請求するつもりはない。それにこれは仕事ではないし、お金を取るつもりなんてサラサラなかった。
「じゃあ、ご飯でもおごるよ。せっかく描いてくれたし、お礼したいから」
「いいの?」
私は弾む声に後から気付き、申し訳なさそうな顔をして誤魔化した。
「ただ働きさせたみたいなのは嫌だから」
デートの理由としてはあまり色気のないものだが、それでも十分嬉しい。彼からデートに──いや、食事に誘ってくれたのだから。
「また連絡する。これはこのまま俺が預かっても──」
「北原くん」
彼の背後から人の声がした。私は彼とともに彼の後ろから近付いてくるそれに視線を向ける。
この間の女性だ。確か、鈴野といっただろうか。
「あ、ごめん。話中だったんだ」
彼女は私のことが見えていなかったのだろうか。彼の姿がかぶって見えていなかったのかもしれない。
彼は「ごめん、じゃあ。これは預かるから」と言って紙芝居と一緒に彼女のもとへ行ってしまった。
私はなんだかショックを受けて図書館を出た。
仕事中なのだ。仕方ない。だけど、彼が私より彼女を優先にしたことでなんだか嫌な気分になった。まだ彼女にもなっていないくせにすごい独占欲だ。
私はデートの約束もしたんだから──。なんて、自分を慰めるしかできなかった。
その翌日、春樹くんから連絡が来た。今度は残念ながら夜ではなくて昼だ。彼のことだから特に深い意味はないと思う。
私は約束の日までいろんな想像をした。それは楽しいことも、楽しくないことも。
あの女性が彼にとってどんな人物なのか邪推して嫌な想像をしたり、彼が誘ってくれた意味を考えたり、心の中は忙しない毎日だった。
外に出ると、夏の暑さの中に爽やかな風を感じた。
近頃、残暑はまだ続くものの、いっとき感じていた猛烈な暑さはややマシになっていた。
私は相変わらず毎日日傘をさしているけれど、今日ばかりはそれをやめた。彼は日傘なんて差さないのに一人だけ持っていたらなんだか格好悪いからだ。それに、傘の分だけ彼との距離が離れてしまう。
駅の改札口前にあるセブンイレブンで待つこと約十分。
私の目にあの野暮ったい髪型と眼鏡の春樹くんが映る。彼は今日も同じだ。もうさすがにガッカリはしなかった。
私たちはどの店に入ろうかとあちこち歩いた。土日だから飲食店のほとんどは混雑していた。
だからお洒落さとか美味しいかはあまり関係なく、なんとなく雰囲気の良さそうな空いている店に入った。
それぞれランチセットを頼み、当たり障りない雑談を交わす。私たちがこうして食事するのは三回目だが、二人の仲にあまり進歩はない。
「お話会のことだけど、あれは春樹くんが読むの?」
尋ねると、彼はまさか、と首を横に振った。
「俺みたいなのが読んでも子供は面白がらないよ。読むのは鈴野さん──えっと、この間会った人」
私はすぐにあの女性を思い浮かべた。彼女が読むのか。となんとなく嫌な気分になる。彼女は元気で溌剌としていて、絵本の読み聞かせには向いているかもしれない。
なんとなく、なぎさちゃんに似てるのは気のせいだろうか。
また嫌な想像をしてしまう。嫉妬している自分が嫌になる。
「篠塚さんもし時間があったら、聞きにきて」
「え? 私?」
「せっかく描いてもらったから。大人は面白くないかもしれないけど」
「……ううん、分かった。時間があったら、聞きに行ってみる。それにしても図書館っていろんなことやってるんだね」
「まあ最近は地域の人が交流する場になってるかな。ああ、月に一回絵画教室っていうのもあるんだ。篠塚さんも参加してみたらどうかな」
「へえ、絵画教室もあるんだ」
「うん。でも、篠塚さんぐらいのレベルの人には退屈かもしれない」
「そんなことないよ。私だって本気の絵ばっかり書いてるわけじゃないもの」
「結構前に、なんかの花描いてたよね。あれは、すごく上手かったよ」
「花────」
私は、その記憶と思しきものを頭の中から引っ張り出した。
忘れもしない。それは私が彼を知った瞬間の出来事だ。それ以外はない。それしかない。
彼も覚えているのだ。私のように、あの出来事を覚えている。私は得体のしれない高揚感で胸が一杯になった。
私の記憶の中にはたくさんの思い出がある。過去の記憶の一片、一片がいつも心を満たし、いつでも彼を思い出せた。
彼もそれらを覚えているのだろうか。あれは小学生の頃の記憶だ。そんなことまで覚えているなんて────。
私は恐る恐る尋ねた。
「どうして、春樹くんはそんな昔のことまで覚えているの?」
「たとえば……今日が篠塚さんの誕生日で、俺がケーキを頼んで篠塚さんにあげるとする」
急なたとえ話に私は戸惑った。仕方なくうん、と相槌を打つ。
「でも、たぶん記憶にはあまり残らない。けど俺がケーキを頼んで、クラッカーを鳴らしたり誕生日の歌を歌ってお祝いをする。ケーキを切り分けたり、このケーキは篠塚さんが好きななんとかケーキだって説明したら、篠塚さんの記憶には残る可能性が高い。人って、感情を動かされた時のことをよく覚えてるらしいんだ。だから何かが起こった時にその人の感情が動けば、その時の景色だったり服装だったり、細かいことを覚えているんだ」
「……つまり?」
「俺にとっては心が動く記憶だったってことだよ」
────ああ、今この時が止まればいいのに。
私はフォークを握ったまま、すっかり彼の言葉に心を奪われていた。
見た目はだらしないしエスコートもできないのに、どうしてこういうところだけ格好いいのだろう。
それは、つまり、どういう意味? 彼の質問に逐一ホワイ? と言いたくなる。
だって、彼の答え方が曖昧なのだ。心が動いたと言うのなら、その理由を教えて欲しい。そこに私の欲しい答えがあってもなくても、なんでも受け入れられるだろう。
微笑んでいる彼の表情はなんだか切なげだ。私は無意識に期待し、そして勘違いしようとしていた。
由香が言っていたように、彼はもしかしたら自分のことを好きでいるのかもしれないと。
けれどだとしたら、なぜそんな昔のことまで覚えているのだろうか。彼は高校の時なぎさちゃんと付き合った。私のことを好きになるタイミングがあるとしたら、再会した今だ。けれどそれだと妙なことになる。
「感情と記憶はワンセットなんだ。私も覚えてるよ」
「何を?」
「私が持ってた落書き帳にアリエルを描いた時、春樹くん似合わないって言ったでしょ。覚えてるよ」
アリエルはディズニー映画に出てくる人魚姫だ。昔から人気で、私はよく落書き帳にディズニーのお姫様を描いていた。
それをたまたま覗き込んだ彼に言われたのだ。彼はけなしているわけじゃなかったみたいだけれど、私にはショッキングな言葉だった。だって、いつも褒めてくれる彼がそんなこと言うのだから。
「けなしたわけじゃないよ。ただ、キャラクターモノの絵を描いてるところ見たの初めてだったから」
「それにしても、『似合わない』はないよ。芸術家はデリケートなんだから。もっとそっと扱って」
「じゃあこれからはもっと褒めるよ」
春樹くんはいたずらっぽい笑みを浮かべた。あまり見たことがない彼だ。いつもはもっと落ち着いているのに、こんな表情もするのだ。随分前から知っていたはずなのに、初めて見る顔だった。
私達は昔のことをたくさん話した。高校の時のことだけではなくて、もっと前のこと。私達が出会った少学生の時のこと。
彼は覚えていた。私だけが覚えていると思っていたことも、全部きちんと覚えていた。特別な記憶力を備えているのかと思うほど、彼の記憶は鮮明だった。
ずっとずっと保管していたみたいに、懐かしい記憶のことを話していた。
彼の話を聞いて私が思ったことは一つだ。
もし彼がその記憶を覚えた時に、何かの感情が動かされたのだとしたら────。
それが、私に優しくしていた理由だったのだろうか。
穏やかな時間も、優しい言葉も、その感情があったが故なのか。
翌月木曜の午後、私は図書館へ向かった。
久しぶりの有給で、平日休みだからかなんだか気分が違う。それに、春樹くんに会えると思うから余計に嬉しかった。
図書館の入り口から向かって右側は普段レストスペースになっていてソファやテレビが置かれているが、今日はお話会があるため少し広く空間を空けていた。
私は始まる三十分ほど前にロビーに顔を出した。そこには図書館のスタッフや、保護者に子供が既に何名かいた。その中には春樹くんの姿もあったけど、さすがに仕事中なので声をかけるわけにはいかない。
子供のいない私がここにいるのはなんだか変な気分だったので、目立たない後ろの方の隅っこの席に腰掛けた。
準備をしているスタッフは三人だ。一人は春樹くん、もう一人は先日会った鈴野という女性。そして少し年配の女性だ。
準備といってもプロジェクターやテレビを使うわけではない、紙芝居は人が読むものだから、ホワイトボードを用意する程度でそれほど大掛かりなことはしていなかった。
やがて時間が来ると、鈴野さんが喋り始めた。鈴野さんの明るい声は広いロビーによく通った。
子供たちはグリーンのソファの上にちんと座り、足をぶらぶらさせながら彼女の挨拶を聞いている。
一人の子供が「早く読んでー!」と叫ぶ。子供のキンとした声が響いた。
鈴野さんは笑顔で、「はいはい、ちょっと待っててね」と自分の子供をあやすように答えた。
今日はいくつか紙芝居を読むらしい。図書館スタッフの横にはホワイトボードに今日読む話のタイトルが書かれている。その中には私が絵を書いた『カエルの王様』も入っていた。
読み始めるとお喋りしていた子供たちがしんと静まる。時々鈴野さんに話しかけたりしながら、お話会は和やかに進んだ。
私が描いた紙芝居以外は、他のスタッフが描いたようだ。いずれも色鉛筆を使っていた。上手い下手ではないが、私は自分が書いたそれを見て満足した。本当は少し不安だったが、子供たちは楽しそうに聞いているし、喜んでくれたようだ。
私はふと、彼の姿がいつの間にかないことに気が付いた。少し辺りを見回すと、彼は私達の後ろに見守るように立っていた。不意に目があって、彼が微笑む。私はなんだか恥ずかしくなって顔を元に戻した。
お話会は一時間ほどで終わった。けれど、その一時間を大人しく座って聞いていた子供はほとんどいなかった。途中で立ったり、走り回ったり、叫んだり、お母さんに駄々をこねたり────。私の方が見ていてハラハラするようなことが何度も起きた。
けれど図書館のスタッフは慣れているのか、全く気にしていないようだ。鈴野さんは何事もないように淡々と紙芝居を読み、春樹くんも慌てることなく黙って見ている。
慌てているのは私と、子供達のお母さんぐらいだ。
お話会が終わり、子供達はお母さんに手を引かれながらパラパラと帰っていった。私はようやく彼に話しかけることが出来た。
「こんにちは。今日は、お疲れ様だね」
「俺は何にもしてないよ。篠塚さんこそありがとう」
「ううん、私は何もしてないよ。それにしてもすごかったね。私、子供が泣き始めた時はどうしようかと思って慌てちゃった。春樹くん落ち着いててびっくりしたよ」
「ああ、子供はああいうものだから。落ち着いて座ってる子の方が少ないよ。みんな途中で飽きるんだ」
「そうなんだ……なんだか、寂しくならない?」
「本当に気に入った子の中にはちゃんと残ってるからいいんだ。全員が全員、好きになれる話なんてないと思うし。俺も、本だったらなんでも好きなわけじゃない」
「……すごいね。本当に司書さんって感じ」
「俺は司書に見えない?」
「ううん、そういうわけじゃ────」
「こんにちは」
声をかけられ、私は振り返った。鈴野さんは笑顔で私達に歩み寄り、春樹くんの隣に並ぶ。また、私の心の中にもやっとしたものが広がった。
「北野くんのご友人の方ですよね。来てくださってありがとうございます」
「いえ……」
「北野くんに聞きました。あの絵、あなたが描いたって。すごくお上手です」
《《北野くんから聞いた》》。なぜだかそのフレーズにカチンと来てしまう。まるで、私(彼女)と北野くんは仲がいいんです、と言われているみたいに聞こえた。
もちろんこれは私の勝手な妄想だ。彼女に悪気はなさそうだし、本当にその言葉の通りなのだろう。
私が彼女に対しいい感情を抱いていないから、そんな言葉も嫌な意味に受け取れてしまうだけだ。
「鈴野さんも、すごくお上手でした」
私はなんとか声を振り絞った。
「いいえ、うるさいのが私の取り柄なので。いつも怒られてるもんね」
鈴野さんは春樹くんにね? と同意を求める。彼は笑みを浮かべながらそうだね、と答えた。
固まっているのは私だけだ。なんだか二人がとても遠い存在に思えて、自分がここにいることがとても不釣り合いなような気がした。
この間は春樹くんも私のことを好きでいてくれているかもしれない、なんて思ったけど、それはただの勘違いかもしれない。だって、彼は誰にでも優しいんだから。私だけじゃないのに勘違いをしてしまった。
「お仕事中にすみませんでした。もう帰ります」
なんだか怖くなって急ぎ足で背を向けた。これ以上二人を見るとまた嫉妬してしまいそうだ。あの二人が横に並んでいると、全然別のことを考えてしまう。彼女はやっぱり、なぎさちゃんに似ている。それが余計に私の心を澱ませるのだ。
「篠塚さん、待って」
強い口調で呼び止められる。図書館を出たばかりの私の体は、魔法でもかけられたみたいに急ブレーキをかけた。
「……なに?」
できるだけ穏やかな口調で振り返った。しっかりと口角をあげたつもりだが、実際はどうなっているか分からない。
「篠塚さん、今日は休み?」
「仕事は、有給使って休んだの」
「もしこのあと時間あるなら、ちょっと付き合って欲しいんだ。俺もこのあとは休みだから」
「……わかった」
「ちょっとさっきの片付け終わらせてくるから待っててもらえるかな」
既に彼の体は半分ほど翻っていた。私が頷くよりも早く、彼は駆け足で図書館へ戻った。
最終的に、私は二十分強待った。彼を待っていたおかげで待たせられたという感覚はなかったが、やってきた彼は《《待たせた》》ような顔をしていた。
「ごめん。行こうか」
彼が歩き出したので私もついて行く。図書館の敷地を出て、そのまま隣にある公園に入った。公園といっても草も茫々で手入れもされていないような公園だ。多分、この地区の自治会が管理しているものだろう。
「今日は見に来てくれてありがとう」
彼は改めてお礼を言った。私は「さっきも聞いたよ」と返した。
「鈴野さんは大学生のバイトなんだ。保母さんを目指してて、ああいうことも手伝ってくれてる」
そんな情報いらないのに、と私は心の中で悪態をついた。
彼女の情報なんて全然知りたくなかった。興味もない。どうして彼はそんないらないことを私に教えるのだろう。
好きな人の前で嫌な態度なんて取らない方がいいのにコントロールが効かない。彼女がなぎさちゃんに似てる、なんて思うから余計にだ。
「フレンドリーだから人との距離感がわりと近いけど、悪い子じゃないから」
「別に、気にしてないよ」
私はだからなに? と言おうとする唇を精一杯閉じた。
涙がじわりと滲んで溢れ出しそうになる。泣きたくないのに止まらない。彼がまるで鈴野さんを庇っているみたいに見えてしまう。
私にわざわざそんなこと言うなんて、私が怒ってるとでも思ったのだろうか。私ってそんなに嫌な女に見えてるの?
嫌われたくないのに嫌なことばかり考えてしまう。
彼はしばらく黙った。大して奇麗とも呼べない景色の中をぐるぐると歩きながら、何か考えているようだった。
私は自己嫌悪で相変わらず喋ることが出来ない。彼が次の言葉を発するまでずっと黙っていた。
「篠塚さんはあの時、なんで俺に連絡してくれたの?」
「え?」
「突然連絡来たから、ずっとなんでかなって思ってた」
春樹くんはいつになく真剣な瞳で私を見つめた。どくどくと脈打ち始めた心臓は警鐘のように私に語りかけた。
────なんで今更そんなこと聞くの?
────まさか私の気持ちがバレてるの?
彼がそれを尋ねたことはなかった。思えば、今までなぜ聞かなかったのか。
ただ私は飲み会の罰ゲームがきっかけで彼に連絡を入れた。昔好きだった人に連絡するという罰ゲームだったから、春樹くんに連絡した。それだけだ。
けれど尋ねられても答えられない言葉だったから、今までは逆に聞かないで欲しいと思っていたし、それに安心していた。
それを、なぜ、今。
そんな間柄なら「たまたま懐かしくなっちゃってサ」とか言って笑って誤魔化すのだが、彼はそれが通用しない人だ。少なくとも、この質問においては駄目だ。
私が黙りこくっていると、彼は言葉を続けた。
「篠塚さんにとってはすごく嫌な思い出かもしれないけど……俺に告白したこと、忘れてないよね」
その言葉で体温が一気に上昇した。私は顔がかあっと熱くなるのを感じた。
やっぱり覚えてる。彼は忘れていない。それはそうだ。小学生の時のことを細かく覚えているのだから、高校生のことなんて覚えていて当然だ。
「君から連絡をもらった時、すごく驚いた。それにすごく嬉しかったんだ。高校の最後の方はほとんど話せなかったし、篠塚さんも俺を避けてたみたいだったから」
「────ごめんなさい」
私は堪えきれずに涙を流した。一つ、また一つと滴が地面に落ちる。彼はようやくやっと、足を止めた。
せっかく《《友達》》に戻れたのに、また《《面倒な女》》になってしまう。彼と一緒にいるには宝物だった過去の思い出が邪魔になる。
そう思っていたけれど、彼はそうではなかったのだろうか。私はあの時のように彼と話しても良かったのだろうか。
私にとって、あの思い出は辛いものだった。好きでいることを無理やり諦めた。そして彼を傷付けた。それがどれだけ心の足枷になっていたことか────。
「……春樹くんはどうして、私に返事をくれたの……?」
「篠塚さんのことがずっと気になってたから」
また、私の息が止まる。この空間に、彼の声以外の他のなにものも入れたくなかった。外界をシャットアウトした私の耳に、再び彼の声が聞こえた。
「俺、本当は優しくないよ。王子様なんて言われてたけど、そんなにいい人じゃない。奉りあげられるのが鬱陶しいってずっと思ってた。けど、篠塚さんはこういう俺でも受け入れてくれた。いい人は俺じゃない。君の方だよ」
「そんなこと、ない。私は卑怯だし、臆病なくせにどっちつかずで、逃げてばかりで……春樹くんにだって、たくさん嫌な思いさせたでしょう」
「過去のことなんてもういいよ」
「私だってみんなと同じだよ。あなたを王子様扱いしてた。優しい春樹くんのことが────好きだった」
言ってしまった。ついに、言ってしまった。本当は言うつもりなんてなかったのに。
都合のいいことばかり考えて、また彼の気持ちを勘違いしてしまったらどうするの、と内心慌てている。今更どうにもならないのに。
「俺は優しくないよ」
「そんなことないよ」
「俺は、君だけにしか優しくない」
時々彼は私が驚くようなことを言ってみせる。私の価値観を覆すようなこと。勘違いを心地よく否定して、すっかり彼色に染めてしまう。小学生の時から、度々そういうことをした。
だから私は、彼のように過去のことがどうでもいいなんて思えない。私にとっては辛くても、それを全て含めて彼のことが好きだからだ。
「もう、君だけにしか優しくしないって決めたんだ。だから俺はもう王子様にはなれないし、呼ばれないと思う」
「……嘘」
「嘘じゃないよ」
彼の掌が私の手の先っぽをそっと握る。少し冷たかった。そして、すごく乾燥していた。多分、本ばかり触るからだろう。
私は彼の手の《《しわ》》を感じながら不安げに揺れている彼の瞳を見つめる。
彼の瞳は狐みたいに細い目をしている。でもツンと尖っていなくて、穏やかで優しい瞳だ。私は彼が笑う時、その目尻が垂れて、ますます細くなるのが好きだった。今もそう思う。
「春樹くん」
「なに」
「もう一回、好きになってもいい?」
彼の腕が私の背中に回る。そうしてこの体は昔身長百六十七センチぐらいだった彼の中にすっぽり収まった。
彼の服装も髪型も、相変わらずダサいままだったけれど、「いいよ」の一言を聞いてそんなことなどどうでも良くなった。
────夢でありませんように!
────夢でありませんように!
私は起きるなりここが現実世界であることを実感して、そして祈った。
巷で流行っているライトノベルみたく夢オチなんてことにはならないで欲しい。なんといっても、憧れの王子様、春樹くんと両思いになるのは私の悲願だったのだから。
普段起床する時刻までまだ十分ほどある。目はバッチリ冴えているし眠くはないが、なんとなく暖かくて柔らかい布団に包まれたくなった。
私は布団の中で「ふふふふ」と不気味な笑い声を漏らしながらゴロゴロと転がった。たいして広くないシングルベッドの端から端を転げ回り、子供みたいに足をバタバタさせる。
いい加減、隣の住人にうるさいと言われそうだ。私は起き上がって出朝ご飯の準備をすることにした。
いつもはライ麦トーストを焼いてオレンジを切ったりインスタントスープを付けたりするのだが、今日はちょっと豪華にしようとソーセージを三本焼いて、パンにチーズを乗っけてみた。ちょっとしたことだが気分が良かった。
満面の笑みを浮かべて出勤すると、案の定由香に尋ねられた。抑えきれなかったのもあるが、彼女に聞いて欲しかったのもある。
「どうしたのよ。そんなにニヤニヤしちゃって」
「実は……両思いになったんだ」
「ええーっ!! 嘘!?」
由香はここがオフィスだということを忘れて飛び上がるほど────というか本当に飛び上がって叫んだ。
周りにいた社員のうちの一人が「どうしたんだ」と尋ねてきた。由香は「彼氏ができたんですよ!」と嬉しそうに話した。私の彼だけど。
「森里、彼氏できたのか」
「違いますよ。朝陽です」
「篠塚? 紛らわしいな」
それもそうだ。
由香のあまりの喜びように、私の方はいつの間にか冷静さを取り戻していた。二十五歳にもなって彼氏ができて大喜びしているなんて、子供っぽい。
今まで彼氏がいなかったわけではないけれど、春樹くんは特別だ。だから、とても嬉しい。
「ね、朝陽。彼氏できたよ記念パーティーしよ!」
「どんなパーティー……」
ちょっと呆れながらも、由香がこうして喜んでくれることは有り難かった。
高校の時は《《彼女》》という正規ポジションになれず、その立ち位置のなぎさちゃんが正しい、他は邪魔をしている悪者、みたいな空気感があった。
もちろんその通りだと思うけど、私は二人の関係を壊した悪者になってしまったからこんなふうに喜ばれることはなんだか新鮮だった。
仕事後、私と由香はちょっと奮発していつもより少し高めのフレンチを食べに行った。
日中は機嫌良く仕事していたので、この幸福なまま一日を終わらせたかった。
雰囲気のいい生ピアノの伴奏を聴きながら乾杯してワイングラスを傾ける。お酒はあまり飲まないけれど、せっかくなので背伸びして注文してみた。「喉越しが爽やかな甘口ワインです」と説明されたワインはまだお子様舌の私には苦かった。けれど、嫌な味ではない。
「まさか朝陽に彼氏ができるなんてね」
「それは、私も驚いた。まさか彼と付き合うことになるなんて……想像もしなかったよ」
「どっちが告白したの?」
お決まりの質問だ。どっちだっただろうか。回想するが、告白らしい告白はしなかったかも知れない。なにせそんなつもりまるでなかったのだ。なんなら、私はあの時不機嫌だった。不貞腐れていた。
それを、突然彼が色々尋ねてきて、結果的にそうなったのだ。
「うーん、告白とかはしてない……かも。でも、お互いの気持ちは確認したかな」
「ふうん?」
想像できないのか、由香は不思議そうな表情を浮かべた。
「まあいいか。せっかく両思いになったんだもん。頑張って青春を謳歌したまえ」
「でも、よくわからないことがあるんだ」
「なに?」
「前に言ったっけ。彼、高校の時に付き合ってた彼女がいたの。でも、小学生の時、私と話したこととか全部覚えてるんだよ。なんだか不思議じゃない?」
由香は腕を組んでうーんと唸り声をあげた。私も、そんな声を出したい気分だ。
彼は一体いつから私のことを知っていたのだろう。そんな昔のことを覚えていられることが不思議だった。
小学生の時のことなんて、余程思い出深かったこと以外は綺麗さっぱり忘れている。だから彼が未だにそのことを覚えていることが不思議でならない。
「実は気になってはいたけど、好きって言えなかった……とか? ああでも、彼女がいたんだっけ……それか、目は付けてたけど好きってほどでもなかったとか……わかんない」
「ね、変でしょう?」
「うーん、本人に聞いてみたら?」
「でもそれを聞くと、元カノと別れた時のことをほじくり返すみたいで嫌なんだ。私のことが気になってたんだとしても、そうするとなんで元カノと付き合ったのか分からないし」
「でも王子様なんて言われてたんでしょ? 結構なプレイボーイなんじゃないの?」
「そんなことないよ。絶対二股するような人じゃないもの」
ますます謎は深まる。
週末、久しぶりに図書館へ行った。
久しぶりと言っても先週以来だから一週間も経っていない。
ここへ寄ったのは前川邸に用事があったついでだが、そんなものはていのいい言い訳だ。
私はあれから春樹くんに連絡せず、向こうも特に連絡して来なかった。
なんとなくまだ現実味がなくて、彼からアクションを起こしてくれることを待っていたらいつの間にかこうなった。
要は怖かったのだ。
私は春樹くんを探さず館内を彷徨いた。
両思いになったのにこんな意地を張っているなんて滑稽だ。本を探しているフリをして、本当は彼を探している。
ふと、輸入図書の棚に視線が止まった。背表紙は英語で書かれているため読めないが、中身はどうやら写真集のようだ。分厚いオモテ表紙をめくると、色鮮やかな外国の景色が写っていた。
仕事の参考になりそうだからと、私はそれを受付に持っていった。
ちょうどそこで、彼が他の入館者の相手をしていた。私が彼に目配せをして気付いてもらおうとしたところで、「こちらへどうぞ」と別の受付から声をかけられた。
声をかけてきたのは鈴野さんだ。私は少し戸惑いながらも彼女が立つカウンターの前に立った。
「こんにちは。この間はありがとうございました」
彼女は相変わらず愛想良く挨拶をしてくれた。確かに、元気のいい大学生に見える。
「いえ……私は何もしていませんから」
「そんなことないですよ。北野くんもすごく助かったって言ってましたから」
また、私の中で何かがカチンと音を立てる。けれどすぐに、いけない。と考えを改めた。
私はこの間までの私ではないのだ。春樹くんと両思いになった正真正銘の彼女なんだ。だからつまらない嫉妬はよそう。
彼も言っていた。鈴野さんはフレンドリーなだけで、悪気はないと。だから私が気にする必要なんてこれっぽっちもない。
私は愛想笑いを浮かべ、彼女が本を貸し出し袋に詰めてくれるのを待った。
すると、ようやく受付に並ぶ入館者を捌いたのか、彼がこちらの受付に近づいてきた。
「鈴野さん」
彼が呼んだのは私の名前ではなかった。
私は一瞬不安に駆られ、先ほど打ち立てた自信が脆くぐらつくのを感じた。
「代わって。あとは俺がやるから」
彼の淡々とした物言いに、鈴野さんはやや驚いているようだった。
私も驚いた。それは彼がわざわざ彼女に代わってくれと言ったからではなく、彼にしては事務的な、なんだか冷たい態度だと思ったからだ。
けれど鈴野さんは過去の彼を知らないからか、「わかりました」と言って愛想よく引き下がった。
珍しこともあったものだ。もしかしたら彼は機嫌が悪いのかも知れない。彼が来てくれてほっとしたが、なんだか邪魔をしたようで申し訳なくなった。
「ごめん。あっちの受付混んでたんだ」
春樹くんは私がよく見たことのある笑みを浮かべた。いつもの彼だ。
「ううん……仕事中に来てるから、こっちこそ邪魔してごめんね。声を掛けないようにしてたんだけど……」
「声は掛けて。邪魔じゃないから」
そう言われて、私は困って視線を下げた。
この間からずっとこんな調子だ。誰か春樹くんに変な薬でも飲ませたのだろうか。
見た目は全然王子様じゃないのに、彼の涼やかな声が甘い言葉を紡ぐたび、恋愛小説の世界に迷い込んでしまったみたいな気分になる。
彼は鈴野さんが詰めた貸し出し袋を私に差し出した。
「週末、どこか行く?」
「え?」
「朝陽に……予定がないなら」
喉の奥がキュッと窄まるのを感じた。ここに誰もいなかったら、胸を押さえつけて心臓病を患った人みたいにハアハアと息切れを起こしただろう。
彼が私の名前を呼んだのは初めてのことだった。
朝陽────。私の名前はこんなに美しい響きをしていただろうか。
私がぼうっとしていると、彼は別の意味に捉えたのか、申し訳なさそうに謝った。
「……ごめん。嫌だった?」
「う、ううん。ちょっと驚いただけ」
「すぐじゃなくてもいいから。俺の休みは土日のどっちかと月曜の休館日。だからまた、朝陽が休みの日を教えて」
「うん……」
私は貸し出し袋を持ってゆっくりとカウンターを離れた。
振り向くと彼はすでに別の入館者の相手をしていたが、ちらりと私に視線を向けてくれた。
────夢じゃない。私本当にあの春樹くんと付き合ったんだ。
スキップしたくなるのを必死に抑えながら、私はにやけた顔を見られないように早足で図書館を出た。
帰宅してすぐに予定を確認すると春樹くんにメッセージを送った。
今週は土曜に仕事が入っているため、振替休日を図書館の休館日である月曜に取ることにした。
彼にメッセージを送り、ベッドに寝転びながら今日借りた本をめくる。
────こんな景色を彼と一緒に見れたら幸せだろうな。
写真集に載ったポーランドの原生林を眺めながら妄想にふける。
こんな場所に彼と行って、彼が本を読む傍で私が絵を描く。なんて、少女漫画の読みすぎだろうか。もう大人なのに、いつまでも私の中身は高校生のままなのかもしれない。
本を読んでいると不意にスマホが鳴った。メッセージではなく、電話だ。
しかし画面に表示されている番号は知らない番号だ。〇八〇から始まる番号に見覚えはない。数百件を誇る私のアドレス帳にも載っていないなんて、いったい誰だろう。
普段なら知らない番号には出ない。けれどなんだか、その電話に意味があるように思えて、恐る恐る画面に指をスライドさせた。
「はい……もしもし」
『朝陽?』
その声にはどことなく聞き覚えがあった。それはつい数時間前に聞いた声によく似ていた。私はもしやと思って聞き返す。
「……春樹くん?」
『うん』
短い言葉が私を安心させる。春樹くんだ。
だけど、どうして彼が私の電話番号を知っているのだろう。彼に教えた覚えはないのに。
『ごめん。図書カード作った時に書いてもらった電話番号、見たんだ』
「あ、なんだ……」
『個人情報保護法違反になるけど』
彼はおどけたように言った。もちろん私はそれで彼を訴えるつもりはない。電話してくれたことは嬉しかっった。
『月曜のことだけど、いいよ。どこか行きたいところある?』
「うーん……春樹くんはどこに行きたい?」
『図書館に行きたいんだ』
私は思わずえ? と首を傾げた。
何せ、彼の勤め先は図書館だ。それなのにデート先まで図書館だなんて、奇妙だと思った。
「図書館? どうして?」
『ああ、俺の職場じゃないんだ。小学生の時によく行ってた図書館』
だとしても図書館だ。私はやっぱり不思議な気持ちになった。
彼が小学生の時に通っていた図書館なら私も知っている。けれどそこに一体なんの用事があるのだろう。そこに借りたい本があるのだろうか。春樹くんが働いている図書館の方がずっと立派で蔵書数も多いのに。
けれど彼が提案するデート先にケチなんて付けられない。それに今の彼が素晴らしいデート先を選ぶ想像も出来なかった。
私はいいよ、と答えた。
『公民館のバス停、覚えてる?』
「うん」
『朝の十時、だったら早すぎるかな』
「そんなことない」
たくさんあなたといたいから。そんな想いが早口にさせた。
デート先は奇妙だが、彼と懐かしい場所を歩けることは嬉しい。私達は約束を交わし、電話を切った。