男嫌いな侍女は女装獣人に溺愛されている

(この空気で、よく発言する気になるね⁈)

 ピケがチラリと目だけを動かしてノージーを見ると、彼はこんな場面だというのにびっくりするくらい綺麗なウインクを寄越してきた。
「ひょわ」とピケの口から息が漏れる。見惚れたからではない。こんな時でなければそうだったかもしれないが、この時の彼女は、ノージーがキリルに害されるかもしれないという恐怖を覚えていた。
 この猫の神経はどうなっているのだろうか。ピケにはちっとも理解できない。

 ノージーのことなのに、ピケはまるで自分のことのように思って、冷や汗が背中を伝っていく。
 身動きすることさえ憚られる中、ノージーはキリルへ近づくと、手を重ねた美しい立ち姿勢を取った。
 座ったままのキリルを見下ろす形で、ノージーがにっこりと悪意ある笑みを浮かべる。

「キリル様はご存じでしょうか? アルチュール国では、イネス様を神のように崇め奉る人々がいるそうです」

「ああ、そういう者もいると聞いている」

「女神テトは、乙女なのです。それになぞらえ、イネス様に乙女でいてほしいと思う輩がいるとしたら……どうなると思いますか?」
「私を殺すか、イネス様を殺す」

「その通りです。事実、ゼヴィン総司令官は言っていました。キリル様に暗殺者が差し向けられている、と」

「私にか? 総司令官や国王ではなく?」

「ええ、そうです」

 そもそも、王族が婚前に行わなくてはならない儀の存在を、王女であるイネスが知らないということはおかしい。
 そんな儀式があるのだとしたら、国から出る前に済ませておくべきである。

「仮にガルニール卿とイネス様がただならぬ関係だったとして、せめて結婚前に思いを遂げたいなんて良からぬことを考えたとしても、こんなお粗末な理由にしないでしょう」

 ノージーの言葉に、ガタンと音を立てて椅子から立ち上がったイネスは、顔を真っ赤にさせて彼を睨んだ。

「わたくしがガルニール卿となんて、絶対にあり得ませんわ!」

 怒りのあまり涙目になっているイネスへ深く頷いたノージーは、「当然です」と答えた。

「ええ、わかっています。ですが、キリル様はお疑いのようでしたので、あえて発言させていただきました。申し訳ございません」

 ノージーの無礼な物言いに、キリルはムッとした。とっさに言い返そうとしたが、ぐうの音もでなかったからだ。
 ついでに、被っていた王族らしい佇まいも剥がれ落ちてしまったらしく、子どもみたいに唇を尖らせている。

(こういうところが、イネス様の母性本能をくすぐるのかしら?)

 ピケがチラリとイネスを見ると、彼女はソワソワとキリルを見ていた。
 慰めてあげたいけれど、素直になるのも腹立たしい。そんな、複雑な顔をして。
 ノージーの話はまだ終わらない。
 立ち上がったままだったイネスがしおしおと着席したのを合図に、彼の話が再開される。
 できる侍女である彼は、イネスへハンカチを渡すことも忘れなかった。

「キリル様の暗殺がことごとく失敗し、もはやこれまでとなった彼らがすることは、ただ一つ」

 そして、信奉者たちは考える。愛すべき王女様を殺す役目は高貴な者ほどふさわしい、と。
 そうして選ばれたのが枢機卿であるガルニール伯爵であり、王族が婚前に行わなくてはならない儀とは、イネス暗殺のためにでっち上げられた架空の儀式なのではないか。

 間もなく、ロスティには本格的な冬がやってくる。
 豪雪は天然の要塞(ようさい)となり、ロスティから出ることも、入ることも叶わなくなるだろう。
 そして、春になればイネスは結婚してしまうとあっては、まさに今が、最後のチャンスなのである。

「この時期を選んだのは、あえてかもしれません」
「王太子妃となるイネス様の祖国からやってきた枢機卿の受け入れを拒否し、凍死させたとあっては外聞が悪い。国外ならまだしも、国民が黙っていないだろう。この国では、どんな者であっても凍死させないという暗黙のルールがある。破れば、王族の人気は地に落ちるだろうな」

「その通りです」

「つまりガルニール卿は、わたくしが乙女であるうちに殺すためにここへ来る……ということですの?」

「ええ。おそらく、ゼヴィン総司令官も同じような推測をするでしょう。以前、そのような話を聞きましたから」

「そう、か」

 さまざまな感情を整理するように、キリルが深いため息を吐く。
 それから彼は立ち上がると、イネスに対して腰を折った。

 深々と頭を下げる未来の夫に、イネスは焦る。
 しどろもどろになって「やめてください」「頭を上げて」と言った彼女に、キリルは頭を振って拒否した。

「申し訳ない。嫉妬にかられ、私はとんでもない勘違いをしてあなたを一方的に責めた。愛想を尽かされても仕方がない。こんな私とは結婚したくないというのなら受け入れるし、もしもまだわずかばかりでも愛情が残っているのなら、生涯をかけて償わせてもらう」

 ピケはキリルの言葉に引いた。
 だって、たった一度の過ちを生涯かけて償うとか、重すぎるだろう。
 でもちょっとだけ、羨ましいと思ったのも事実だ。
 強い気持ちを持てるキリルが羨ましい。ピケにはまだ、そんな経験がないから。
 なんにせよ、超弩級の愛である。
 果たしてイネスの反応はいかに……と見てみると、お似合いというかなんと言うか、感動に打ち震えている主人がそこにいた。

「キリル様……いいえ、キーラ様。わたくしは確かに傷付きましたけれど、実は少しだけ嬉しく思ってしまったのです。だって、初めての嫉妬ですわよ? それに、わたくしを問い詰めるときのお顔。いつもの穏やかな顔とは違った凛々しい顔立ちに、わたくしは改めて恋をしました」

「イネス……!」

「キーラ様っ!」

 ひっしと抱き合う二人に、ピケは「終わりよければすべてよし!」とうんうん頷いた。
 だが、安心したのもつかの間。
 キリルとイネスがピケたちの存在を忘れて甘い言葉を交わし始めると、場の空気が桃色に染まりだす。
 いたたまれなさにピケが視線を泳がせていると、不意にイネスと視線が合った。

『あなたも、やるのよ』

 無言の圧力に、ピケは慌てて首を振って否定したが、耳を覆いたくなるようなキリルの甘い言葉の数々に意思が揺らぐ。
 タイミングが良いのか悪いのか、こんな時に限って王都の路地裏で受けたノージーの告白を思い出し、場の空気も相まって、やらなくちゃいけないような気がしてきた。
 そんな中、ハラリと床へ落ちた手紙を拾ったノージーが、鼻をクンとひくつかせる。

「これ、柑橘系の匂いがしますね。炙ったら文字が出るのではないでしょうか?」

 うっかり流されそうになっていたピケは、ノージーの言葉にハッとわれに返った。
 甘い空気を振り切るように、ことさら明るい声を出す。

「え、うそ。すごい、なんか陰謀の香り……!」

 ピケのひっくり返った声に、ノージーはクスクスと笑った。

「なんですか、陰謀の香りって。読書するようになったのはすてきなことですが、変なことを覚えるのはほどほどにしておいてくださいね、ピケ」

「はぁい」

 そんなことを言い合いながら、ピケとノージーはイネスの部屋にあった燭台に火を灯し、手紙を炙ってみた。

「おやおや」

「うわぁ」

 浮かび上がった文字に、感嘆の声を漏らす。

『ヨルヲテラスホシトナリ、ワレラヲミマモリタマエ』

 それは、アルチュールの言葉。
 女神テトの最後をなぞらえたその意味はおそらく、『乙女であるうちに命を断ちなさい』だろうと思われた。
 ガルニール卿が王都へ到着したのは、手紙が届いてから数日後のことだった。
 今にも雪が降りそうな、どんよりとした空の下。それに反比例するかのように鮮やかな色合いの派手な馬車が入ってくる。
 窓に張り付くようにしてガルニールの到着を、ある意味今か今かと待っていてイネスは、とうとう耐えきれなくなったらしく、踵を返した。震える体を抱きしめながら、ソファへ腰掛ける。その顔は、真っ青だった。

 ピケとノージーがイネスの代わりに外を眺めていると、しばらくして馬車から細身の男が降りてきた。
 浅黒い肌に艶やかな黒髪は、アルチュールの特徴らしい。どことなく不健康そうに見えるのは、長旅のせいだろうか。
 細い眉に、ややつり上がった目、細い顎は神経質そうに見える。

「うわ……」

 見るなり、ピケが言った。
 その隣にいたノージーも、ピケの「うわ」に込められた言葉の意味を理解してか、唇に拳を当てながら小首をかしげ、

「そうですねぇ……話す時も口が小さく閉じているので、ボソボソとしゃべっているのでしょう。神経質な人の特徴の一つです」

 と言った。
 そんなノージーにイネスは「その通りよ」と答える。
「とうとう、来てしまったのね……」

 ソファで身を縮こませていたイネスが、重いため息とともに声を漏らす。
 その様子は、まるで生贄のようだ。どうしようもないと諦めながら、それでもまだどこかで諦めることができないでいる。まだ引き返す余地があるのではないかと、願ってしまうのだろう。

(イネス様は、優しいから)

 だけどその優しさが、この事態を招いた要因の一つであることは確かだ。

(原因とまではいかないけれど……イネス様は、気に病んでいる)

 ガルニールが王都へ来る前の数日の間に、ピケとノージーはイネスから告げられた。

「あなたたちと出会った日……わたくしは“うっかり国から侍女を連れてくるのを忘れてしまった”と言いましたけれど……本当はうっかりではないのです」

 アルチュールの天使と呼ばれるイネス・アルチュールが国王に溺愛されていたのは、ロスティとの戦争が始まる前まで。
 そう。現在、国王はイネスを溺愛していない。
 戦争が始まり、安全な城でただ待っているだけではなく、王族である自分にも何かできることがあるのではないか。
 イネスは考え、周囲の者たちとも相談した結果、負傷兵たちの看護の手伝いをすることになった。

 最初は良かったのだ。国王も「兵の士気が上がる」と大喜びだった。
 だが、敗戦の気配が漂うようになってくると、そうも言っていられなくなる。
 国王からは「城に戻れ」と命令がきていたが、日々増えていくばかりの負傷者たちを置いて、戻れるはずもない。
 再三にわたる命令を無視した結果、国王はイネスを見限ったのである。

 戦争が終わり、城へ戻ったイネスに待っていたのは、冷遇の日々だった。
 煌びやかな王宮から、掃除もまともにされていない冷宮での生活。あらゆるものが質素になり、侍女も来たり来なかったり。

「わたくしは、仕方がないと受け入れました。王命を無視したのです。殺されたっておかしくないのに、わたくしは生かされた。わたくしはそれを、父から贈られた最後の愛情なのだと思って、感謝していたくらいです」

「しかし、それをよく思わない者もいたのですね?」

「ええ、ノージー。その通りよ」

男嫌いな侍女は女装獣人に溺愛されている

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