僕は二度寝する事なく、そのまま一限目の講義に間に合うよう寮を出た。

 朝方まで降っていた雨は上がり、梅雨の合間の晴れ間が広がっている。梅雨晴れ特有の湿気を帯びた重い空気の中、僕はハンカチで額を拭きなから大学の正門をくぐった。厚着してしまった事を少し後悔する。

 午前最後の講義が少し長引き、僕は諒太と京香が待っているであろう学食へと急いだ。
 僕は二人を見つけると「よっ」と軽く手を上げる。なんだか二人の様子がおかしい。周囲の人に声を聞かれないよう音量は落としているものの、強い調子で何やら言い合っているようだ。

「どうしたの? 二人とも」
 僕は二人の顔を順番に見ながら諒太の隣に座る。
「どうもこうもないわよ。諒太ったらいきなり……」
 京香は次に話すべき言葉を飲み込んだ。

「いきなり……どうしたの?」
「あ、俺……京香に告っちった」
 諒太は照れた様子でぺろりと舌を出しながら頭を掻いた。全然可愛くない。

「はあ? 学食で告ったの? ムードもへったくれもねえじゃねえか。お前、絶対一生彼女できねえな」

 わかっている。彼女ができた事のない僕がそんな事を言っても説得力はゼロである。
「あんたもね」
 案の定、京香からきつい一発を食らった。
「でも俺……京香の事、ほんとに好きなんだよ」
 性懲《しょうこ》りもなく食い下がる諒太。

「好きって、あんた高校の三年間も大学《ここ》に入ってからの二年間もそんな素振り一切なかったよね。何とち狂った事言ってんのよ。そりゃ、好きだって言われて嬉しくない訳ないけど……。そんなに好きなら私の好きな所を十個言ってみなさいよ! 三十秒以内にね! そしたら少しは検討してあげる」
「おい、京香。いくらなんでもそんな急に十個って言われても……」

 すると諒太がおもむろに立ち上がった。

 ――一、可愛い。
 ――二、色っぽい。
 ――三、綺麗。
 ――四、ウエストがキュッと絞まってる。
 ――五、足が細くてすらりと長い。
 ――六、気が強いように見えて実は優しい。
 ――七、気が強いように見えて実は寂しがりや。
 ――八、ユーフォの音が柔らかい。
 ――九、女性からも男性からも好かれる。
 ――十、指揮者《コンダクター》という大きな夢をしっかり持っている

 僕は呆気《あっけ》にとられ、京香と目を合わせた。京香の豊満な胸の谷間を見て、それだけで好きになったのだと思っていた。けれど、諒太は京香の事をちゃんと見ていたのだ。

 親友として諒太の事を、僕は誇りにおも……。

「十一……」
「十一?」
「おっぱいが大きい」

 ――あちゃ。それ言うか。

「武藤京香さん!」
「わっ! な、何よ」
 京香は諒太の大きな声に驚き椅子ごと後退りした。

「もう一度言います! 俺と付き合って下さい!」
 諒太は学食のテーブル越しに京香に頭を下げ右手を伸ばした。

 諒太の告白は周囲に聞こえている。外野のみなさんはゴリラが美女を射止める瞬間を期待しているのだろうか。
 期待感と緊張感が低い唸りのようなざわめきとなり学食全体をおし包む。

 ――ごくり。

 僕は唾を飲み込んだ。
「ちょっ、あんた。こんな場所で馬鹿じゃないの。け、検討してあげるから頭上げてよ。恥ずかしいでしょ」
 京香はトイレにたった。周囲から注目されている現状に耐えられなかったのだろう。

 僕は諒太に訊ねる。
「どうなんだよ。今度こそ上手くいきそうなのか?」
「まあ、脈有りってとこかな」
 そう言って諒太は胸を張る。小学六年生の頃からよく見てきた光景が目の前で繰り返された。
 大学生になった今、このマッチョな野郎に僕の薄い胸を貸すのはもうごめんである。

 僕はこの学食で一番人気のオムライスを、諒太は二番人気のハンバーグ定食をテーブルに運んだ。この二品の共通点はデミグラスソース。そのデミグラスソースが美味しいのだ。

 雑誌などでも取り上げられたこのデミグラスソースを目当てに一般の人たちも学食《ここ》を訪れる。
 そして京香は自分で作ってきたお弁当を開いた。
「お! 京香のお弁当うまそう」
 諒太は続けて「ちょっと味見していい?」と言いながら京香の了承が出るのも待たず弁当箱の中に割り箸を伸ばした。
「ちょっ、あんた!」
「うめえ。超うめえ」
「もう! 何、勝手に食べてんのよ!」
 京香は敵から大切な物を守るかのようにテーブルの上の弁当箱を両手で囲った。
 諒太は再び立ち上がり京香へ向かって叫んだ。

「十二! 料理が上手い!」
「うるさい! 検討やめるわよ」
 あっさりいなされ意気消沈する諒太。椅子に座るとハンバーグ定食のブロッコリーをぱくりと口の中へと放り込んだ。

 僕は二人に夢の事をきちんと話そうと思った。あまりにもおかしな体験である。ひょっとしたら精神科の先生に診てもらった方がいいのかもしれない。そう思わせるほどおかしな出来事なのだ。
「あのさあ、ちょっと話は変わるんだけどね」
「賛成! 早く話変えて」
 京香はそう言って玉子焼きを頬張った。

「僕の夢がなんだか変なんだよ」
「プロのサックス奏者になりたいってやつ? さては作曲の魅力にでもどっぷりハマっちゃっ……」
「あ、いや。そっちの夢じゃなくて」
 僕は京香の言葉を遮った。

「じゃあどっち?」
「寝てる時に見る夢の方。ほら、前に『最近おかしいんだよね』って話しかけてやめた話。覚えてる?」
「覚えてるわよ。で、どうしたの?」


「はあ? 朝起きたら髪の毛が濡れてたですって?」
 京香は目を大きく開き、閉めかけた弁当の箱を持つ手をぴたりと止めた。
「お前、おねしょでもしたんじゃねえのか?」
 諒太は意地悪そうに顔を歪めてそう訊ねた。まさに青森ねぶた祭りの山車《だし》そっくりである。
「僕もそう思ってさあ、生《なま》で触ったり握ったりしてみたんだけど濡れてなかったんだよ」
「キャッ! やめてよ。一応私も女子なんだから」

 京香は顔を真っ赤にしながら両目を両手でふさぐ。今この場で目をふさぐ意味が僕にはわからない。けれど、そんな彼女を見て諒太の感想は違っていた。
「そういう所も可愛いんだよな」
 にやにやしながら諒太が京香の顔を覗き込む。
「話を戻さないで!」
「あ、はい。あぅ……」
 あっさり撃沈してしまう。

「あとね、夢の中で紗綾が僕のほっぺにキスしたのね。それで……」
「はあ? キスされたですって?」
 なぜか京香はそこに突っ込んだ。その顔は少し怒っているようにも見える。

「う、うん。紗綾、ラメの入ったリップクリームしてたんだけど、起きたら僕のほっぺにもラメがついてたんだよ。あり得ないでしょ?」
「あり得ない。キスするなんてあり得ない」
「え? そこ?」

 その後、諒太の提案で誰かの家で宅飲みでもしながらこの話を整理してみようという事になった。
「僕の寮は男子寮だから女の子は入れないよ」
「俺のアパートは狭くて古くて散らかってて、それから……」
「はい、はい。私のマンションって事ね。諒太、変な所開けて見たりしないでよ。わかった?」
「はい」
 結局今週の土曜の夜、京香のマンションでお泊まりする事になったのだ。

 京香が「じゃあね」と言って僕たちに背を向けると、諒太が僕に向かってにやりと微笑んだ。

「わっ! 怖っ!」