「識嶋ディレクター」


午後、営業部に用事があり廊下を歩いていた時だ。


「社長がお呼びですので社長室にお願いします」

「わかった」


識嶋さんが社長秘書に声をかけられているところに出くわした私は、咄嗟に曲がり角を利用し隠れてしまう。

理由は先日約束した恋人偽装の件だ。

了承したものの、やはり万が一の時が来たら上手く対応できない気がして、できるだけ恋人として振る舞うことがないようにと、こうして会社では識嶋さんとの接触をできる限り避けるようにしている。

まあ、今回は社長秘書の女性が相手だし、特に必要になりそうな気配は──


「ところで、識嶋ディレクター? 良かったらこれ、使ってください」

「……なんだ?」


ないはず、だったのだけど。

用件とは関係のない会話が聞こえてきて、私はそっと二人の様子を伺った。

すると、社長秘書は細くしなやかな指に挟んだ名刺を識嶋さんに差し出していて。


「あ、使って欲しいのはこちらです」


語尾に甘さを滲ませて名刺を裏返し、何かを見せた秘書さんが、含みを持たせた色気のある笑みを浮かべた。