平成21年 春

稲葉桜夜は自宅の庭の桜を眺めていた。

…まったく、狭い庭に桜なんて…散ったら毛虫地獄じゃん…

後ろから母、美沙子の声がする。

「さ~よ~。ご飯、食べちゃってよ。入学早々遅刻するわよ」

今日から桜夜は高校生になる。

「はぁ~い」

桜を背にリビングへ向かう。

庭の桜が小さく風に舞った。

「お母さん、桜、どうにかしようよ。また毛虫が…嫌だよ」

トーストを頬張りながら美沙子に言う。

「ダメよ。お父さんが大事にしていた木よ。バチが当たるわよ」

桜夜には父親がいない。

桜夜が中学に入った頃、事故にあい他界した。

桜の木が大切な事は桜夜にも解っていた。

父親が桜にこだわっていたのであろう事も。

平和な現代、思い入れより虫が嫌だと、目先の事しか考えられなかったのだ。

それに、葉になる度に美沙子が大変な事になるのも嫌だった。

裕福ではないが、一般的な暮らしをさせてもらっている。

母親一人で働き、一般的な暮らしを維持するのは大変な事だと理解していた。

「ほら、そろそろ出ないと。本当に遅刻するわよ」

美沙子は話はそこまで、と言わんばかりに桜夜を急かした。