「ちびすけは狂犬病予防注射。オーナーの仕事の都合だって、あずかりで夕方お迎え」
 健康で、ここにいるんだね、それなら安心。

「ちびすけって、あなたのどこが、ちびすけなの」

 中型犬のシェルティだから、どう見ても、ちびすけじゃないよね。思わず、首をひねっちゃった。

「ちびすけって図体じゃないよな。ちびすけは、仲秋に入職したころに取り上げた子なんだよ」

「取り上げたって。自然分娩で自宅出産じゃなかったんですか」

「母犬が若くて初産で。しかも産道が狭いし、陣痛微弱だった」

「けっこうヘビーな条件が揃いましたね」

 私の言葉に右側の口角を上げて、挑発的な笑みを浮かべているんだけど、なに?

「まだまだ。胎子がランスと、あともう一頭しかいなかったから、二頭がお腹の中で大きくなり過ぎてて難産だったんだよ」

 ランス、あなたって、お腹の中にいたときから、ちびすけが似合わなかったんだね。

「海知先生って凄い、スーパーVET(獣医)なんですね」

「いまさら?」
 ハンッて鼻で笑って、明後日の方角に顔を向けちゃって。

 自信満々の横顔、そのEラインの横顔よ、なんて美しいの。
 真っ正面もきれいなのに、横顔までもきれいだなんて。

 私の目が駄々をこねる、海知先生から目を離したくないってね。

 館内放送を知らせるブザーが鳴った。今このタイミングか、もう少し見ていたかったなあ。
 なんて言ったら不謹慎だ、ちゃんと集中して聞こう。

 長く繊細な指先をスピーカーに向けた海知先生が、微笑みが消えた真剣な顔で眉をひそめて、耳を澄ましている。

 海知先生が担当している子の、オーナーからの問い合わせだって。

「川瀬、ちびすけをケージに入れておいて。受付に行ってくる」

 川瀬って、私は違うよ......

 いつまでも、返事が聞こえてこないからか、海知先生が振り向いた。
 きっと、私の気持ちは顔に出ているよね。

 私の顔色をうかがったあとに、子どもをなだめるような微笑みを向けてくる。

「どうした」

「私は星川です」
「ごめん、間違えた」
 海知先生の気持ちも体も問い合わせの患畜に向かって、思いを馳せているみたい。

「すぐ戻るから機嫌直せよ」
 機嫌も悪くないし、沈んだ表情をしている理由も違う。

 よしよし、頭を撫でられた。
 私は動物じゃないんだから、扱いいっしょにしないでよ。

「行ってくる」
 何事もなかったように、颯爽と走って出て行くうしろ姿を見送った。

 海知先生にとっては、なんてことない大したことない出来事なんでしょうね。
 自分でも無自覚で、ふとした瞬間に川瀬さんの名前を呼んじゃうってことが。

 それって、私にとっては酷なことだし、凄く寂しいんだよ。