樹のアパートから出た沙菜は、人通りの少なくなってきた歩道を歩いていた。

 何だろう……このドラマのようなベタな展開。

 「ふふふっ」

 ベタ過ぎて、笑えてくる。

 予感はあったんだ。もともと付き合っていることを樹はひた隠しにしたがったし、いいように使われていた。仕事だってあいつの仕事なのに私がいつも残業してあげていた。助け合っているなんて当時はそう思っていたけど……あれは違ったな。

 二十九歳にもなると未来に対し不安感が押し寄せる。どんなに嫌な奴でもいてくれるだけでいいと思ってしまう。沙菜から別れることもできたのにそれをしなかったのは……一人になるのが怖かったから。

 樹との間に愛なんてものは、存在していなかったのかも……。

 だからだろうか、涙が出てこない……淡々としている自分に呆れてしまう。

 あー、そういえば家でまとめようと思っていた会議用の資料、会社に忘れてきちゃったな……。こんな時でも仕事のことを考えているなんて自分はワーカホリックなのではと思う。

 しっかりとした足取りで、沙菜は会社へと向かっていた。あんなことがあったのに、頭はすっきりしていて、足取りも軽い。

 会社に着くと警備員に説明して中へと入れてもらい、経理部へと向かって歩いていく。廊下の電気は消えていたが、毎日のように歩いている廊下のため、特に不都合はなく経理部についた。

 沙菜は自分のデスクの引き出しから、忘れてしまった資料を取り出し鞄へとしまうと、暗いオフィスにスマホの着信音が響き渡った。

 人がいないせいか、スマホの音がやけに大きく聞こえてきて、沙菜は急いでスマホを鞄の中から取り出すと、スマホの画面を確認する。

 そこには畑中樹の文字が……。

 スマホの画面をスライドさせ耳に当てれば、そこから聞こえてくるのは聞きなれた樹の声。

 もしかして謝るために電話を……?

 淡い期待を膨らませるも、それは数秒で消え失せる。

「お前さあ、どういうつもりよ?彼女怒って帰っちゃったじゃん。やっと美人受付嬢口説き落としてこれからって時に……」

「…………」

「それでさーー。岬ちゃんになんてメールすればいいかな?機嫌とるならプレゼントとかの方がいいかな?どうしたらいいと思う?」

「…………」

 この男は一体何を言っているの?

 彼女に浮気相手の相談していること、わかってる?

 意味が分からず混乱し、樹の言葉が脳に留まることなく耳から流れ出ていく。

「お前話聞いてる?最近のお前ぜんぜん役に立たないな。あっそうだ、合いカギ返して。彼女面されるの迷惑だから」

 何か言い返してやりたい。やりたいのに声が詰まって何も出てこない。

 そうこうしているうちに、スマホの通話は一方的に切られ、耳からスマホを離すと耳に強く押し当ていたせいか、じんわりと熱くなっていた。


 彼女面……。

 一体何か起こっているのかわからない。

 樹の中で私は、すでに彼女では無かったのだろうか?

 心がスッと冷えたいく。

 真っ暗だ。

 視覚的にもそうなのだが、目の前が未来が心がすべて黒く塗りつぶされていく……浸食されていく。


 シンと静まり返ったオフィスに一人立っていると、暗闇に体が飲み込まれてしまいそうで恐ろしく怖くなった。背筋がゾクリとして、沙菜は自分の体を抱きしめるように、両腕を巻き付けた。

 体がカタカタと震えだし、瞳に涙が集まりだす。


 『役に立たないな』

 『合いカギ返して』

 『彼女面されるの迷惑だから』




 スマホの通話はもう切れているのに、あいつの声が聞こえてくる。


「……っ」

 
 グッと引き結んだ唇から、声にならない音が漏れ、瞳から涙がこぼれ落ちていく。

 どうして電話なんて掛けてきたの。

 先ほどは少しは悲しいと思った……。それでも涙を流すほどでは無かったのに。

 今は、樹から浴びせられた言葉に、心がえぐられるようだった。
 
 
 涙が止まらない。


 どうして……。

 どうしてよ……。

 どうしてあのまま、放っておいてくれなかったの……。
 
 
 こんなの……。

 こんな状況……。

 つらい……。

 つらすぎるよ。


 傷口の塩を塗る。そんな言葉が頭をよぎった。

 傷つけられた心の傷口から血が溢れ出す。 
 
 心の傷から溢れ出す血を止めるすべが、私には見つからない。


 涙を止めようと深呼吸してみるが、涙が止まる気配は全くなかった。

 後から後から涙があふれ出し零れ落ちていく。綺麗になんて泣いていられない、ここには誰もいないのだから、みっともなく泣いてしまおう……。

 沙菜は顔を歪めると声を上げて泣いていた。


 彼にとって私は一体何だったのだろうか?

 仕事を手伝ってくれる女?

 掃除をしてくれる女?

 料理をしてくれる女?
 
 すべて都合のいい女だ。

 
 私は都合の良い女だったのか?

 わからない……。

 しかし……。

 今、樹にとって自分が途轍もなく迷惑な女だということだけはわかっていた。


 つらいよ。


 助けて……誰か助けて……。