病院に入れば警備員や受付の人たちが軽く会釈する。私は、それに目を伏せることで応える。
 本当は、応えているのではなく、逃れているだけなのかもしれない。
 受付はお兄様が済ませてくれているのだから、私は直接内科の待合室へ行けばいい。
 廊下を歩いていると胃がキリリと痛む。胃なのか、お腹なのか……正直、どちらなのかよくわからなくなってきていた。
 内科のある病棟へと続く渡り廊下を歩いていると、激しい眩暈に襲われた。
 ――貧血っ?
 血の気が引くのと同時に目の前が真っ暗になり、すぐに手を伸ばす。
 手の平に冷たい壁の感触を得て、廊下の端を歩いていて良かったと思った。
 お薬だけは欠かさず飲んでいたのに……。
 こうして症状をやり過ごす間に看護師さんか警備員の人に声をかけられるんだわ。
 それは、「私」だからではなく、「藤宮真白」だから――
「大丈夫ですか?」
 ほら……。
「真っ青ですね? 今日はどこの科に受診を……?」
 え……?
 かけられる言葉や接し方にいつもと違う何かを感じる。
 私と知らずに声をかけた……? それとも患者さんかしら?
 顔を上げると、声の主は白衣を着た医師だった。



 すごくきれいな……ひどく、冷めた眼をした男の人。
「どちらの科に受診ですか?」
 再度訊かれてはっとする。
「内科、です」
「すぐそこですね。立てますか? 立てないようでしたら車椅子を持ってこさせますが」
「い、いえっ……あの……ひとりで行けますからっ」
「……そうですか? その割に、立ち上がる気配がないのですが」
 あ――つい見惚れてしまって、廊下に座り込んでることを忘れていた。
 そこに何度か聞いたことのある声が割り込む。
「真白様っ!?」
 あぁ……今度こそ間違いなく看護師さんだわ。
「マシロ様……?」
 目の前の医師が首を捻る。
「芹沢(せりざわ)先生、この方は紫先生の……」
「あぁ、妹さん」
 これで私はまた「藤宮真白」になってしまう。
「ちょっとそこのあなたっ! 車椅子っ」
 看護師さんが警備員さんに声をかける。私は諦めの境地でその場にしゃがみこんだままだった。すると、
「どうして言わないのですか? 私に言ったように……」
「え……?」
「ご自分で歩いて行かれたいのでは?」
 その医師は、私に目線を合わせ訊いてくる。
 目が合ったとき、心臓がドクリと音を立てた。
「あ、あのっ……お手を、お貸しいただけないでしょうか?」
「えぇ、いいですよ」
 返事までの間はなかった。
 私は持ってこられた車椅子には乗らず、その医師の手を頼りに内科までの道のりを歩いた。

「お腹を押さえていますが、お腹が痛むのですか?」
「……はい。ここのところ食欲もなくて……たぶん、胃酸過多になっているのだと思います」
「そういうのは安易に考えないほうがいい」
 え……?
 言われたことを不思議に思っていると、
「真白っ」
 血相を変えた兄がやってきた。
「お兄様……」
「看護師から倒れてるって聞いてびっくりしたんだが……」
 倒れてるなんて大袈裟な……。
「芹沢先生、妹がお世話になったようですね」
「いえ、そこを通りかかっただけのことです。……妹さん、お腹が痛いそうですが?」
「あぁ……胃じゃないかな? 先月は相当な件数、見合いがあったみたいだし。昨夜も今朝も、何も食べられてなかっただろう?」
 私はコクリと頷いた。
「自分、消化器内科の医師なのですが……」
 え……?
「そういえば……。ちょうどいい、いつもの検査が終わったら彼に診てもらったらどうだ?」
 え……? あのっ――
「どうかなさいましたか?」
 先ほどと同じように顔を覗き込まれる。
「いえっ」
 お兄様っ……!?
 きれいな人から視線を外し兄へと向けるも、
「彼は胃カメラの腕がいいと評判の医師だよ」
 まるで見当違いの答えを返され、「安心しろ」と言わんばかりの顔をする。
 そうではなくてっ――
「昨夜から何も食べてらっしゃらないようでしたら、すぐに検査ができますね」
「あぁ、そうだな……。ところで、芹沢先生は今の時間は?」
 兄の問いにその医師は、
「今日は午後から学会があるので、勤務からは外してもらっています」
「なら診てやってもらえませんか?」
「私でよろしければ」
 話は刻々と「胃カメラをする」ほうへと進んでいく。
「お兄様っ」
 いやです、という意味をこめて声をかけたのに、
「真白、胃カメラが嫌いなのはわかるが、今回は兄命令だ」
 聞いてはもらえなかった。
「おや……渋い顔をしていたのはそういう理由でしたか」
 口端を上げて笑うと、端整な顔がより一層きれいに見えた。

 結局、私はその日のうちに胃カメラを飲むことになり、血液検査もこの――芹沢先生がしてくださった。
「胃カメラは前にも何度かやっているみたいですが、確認の意味もありますので説明しながら進めます」
「……はい」
 胃カメラは本当に嫌いで、できればやりたくない検査の最上位にあがる。でも、もっといやなのは、目の前にいるきれいな人に検査をされること。
 男の人なのにこんなにきれいだなんて、少しずるい……。
「腸の働きを止めるためにブスコパンという筋肉注射をします。それから――」
 淡々と検査の流れを順を追って説明してくれる。
 口の中に苦いゼリー状の麻酔薬を入れられるのも、喉に刺激のある麻酔薬を吹きかけられるのも、全部が苦手。
 いつもならここまでの検査準備は看護師さんがしてくれて、検査をする先生は一番最後にいらっしゃるのに……。
 今日は最初から最後まで芹沢先生にされている。
 お見合い以外で一族以外の男の人と接するのはどのくらい久しぶりかしら……?
「大丈夫ですか? ゼリー出していいですよ」
 ティッシュと一緒にトレイを渡された。
 どうして――どうしてこんな姿を見られなくてはいけないのか。恥ずかしい……。
「……熱もあったりしますか?」
 やだっ。私、顔赤い……!?
 慌てて首を振ろうとしたら、ゼリーが喉の奥に流れてきて少し咽た。
「もうすでに喉の奥まで麻酔がかかっています。飲み込まずに出してしまいなさい」
 冷静に、とても落ち着いた声で言われる。
 私はコクリと頷き、言われるとおりにした。