翌朝。
とても早い時間に、瑠衣は学校に着いてしまった。




クラス中どころか、学校中のほぼ全員が自分に注目し、これ以上無いほどに騒然としている。

そして久しぶりに登校した自分は、4月の頭からの記憶が、完全に抜け落ちているのである。


アウェー感、半端ない。



「おはよう」


クラスに入る。
知らない顔ぶればかりだ。

近くにいた女生徒が、こちらを向いて返事をしてくれる。

「あ、佐伯さん、おはよう!体はもう、大丈夫?」

「うん。ありがとう。もう大丈夫だよ」

…自分の席は、ここか。
廊下側の、一番後ろ。机に名前が書いてあり、すぐに解った。


返事をしてくれた知らない女生徒は少し居心地が悪そうに、すぐにどこかへ行ってしまった。

自分が安心して話せる友人の元へ、速足で。


人間観察を得意とする自分だが、今日は徹底的に、皆から観察される側である。



今は、7月の第1週目。
もう少しで、夏休みだ。


この居心地の悪い状況も、夏休みに入れば少しは変わるかも知れない。


担任の先生が瑠衣に、昨夜電話で簡単に説明をしてくれていた。

それによると、クラスメイトが戸惑わないように、事前に4月頭からの瑠衣の記憶が無いことを、ホームルームで説明してあるのだそうだ。

連日テレビを騒がせている、阿賀野拓也に監禁された恐ろしい事件についての記憶が一切無いという、おかしな状態の自分に対する興味もあるようで、同級生達は容赦なく、自分の方に視線を向けて噂話をしている。


何だか、息苦しい。
自分が一体、何をしたというのだろう。


だんだん皆の声が大きく聞こえてくるようになり、別のクラスの人間も見に来て大騒ぎになりそうだった、その時。


ある女生徒が、瑠衣が座っている机の前に立った。


「あ、おはよう、えーと、…」


誰だっけ。


クラスの自己紹介までは覚えているけれど、この人の名前を思い出せない。
綺麗な顔立ちではあるが、自己主張が強そうな、笑った顔を無理矢理見てみたいような人。

瑠衣が困っていると、彼女ははっきりとした声で、自己紹介した。

「仙崎瑞穂です。おはよう、佐伯さん」

仙崎さんは、瑠衣に注目している全員に向かってこう言った。


「この佐伯瑠衣という人はね、陰で噂されるのが嫌いなの。悪口を言われる事も大嫌い。…ま、みんなそうでしょうけど」



皆はしんと静まり返った。



「正面からちゃんと話をしないと、この人ったら、卑怯な方法で色々探りまわって、一人一人に報復するかも知れないわよ」


それではまるで、悪口じゃないの。


自分が一体、過去に何をしたというのだろう。
かばってくれるのは有難いが、大変失礼な言い方をする人である。

でも。

正面からはっきりと言ってくれるこの態度には、とても好感が持てる。


仙崎さんは、瑠衣に言った。


「記憶が無いそうだけど、あなたが思い出したらもう一度言うわね。…佐伯さん、」

仙崎さんは、瑠衣にいきなり頭を下げた。


「…ごめんなさい」


瑠衣はぽかんとした。


「…え?」



ほぼ初対面のクラスメイトから、いきなり謝罪されてしまった。

「知らないと思うけど私、陰であなたに死ねと言った。ひどい言葉だったわ。そんな風に思っていたわけでは無かったのに。あなたに、何かひどい事をされたわけでは、無かったのに。ただ私はあなたが目障りだっただけで」

仙崎さんは、目に涙を浮かべた。

「生きていてくれて、本当に良かった。…記憶が戻ったら、もう一度同じ事言うわね。おかえりなさい、佐伯さん。また、手芸部に遊びに行くから…」

瑠衣は、苦笑いした。

「何も覚えてないけど、覚えておくね、仙崎さん。…大丈夫。あなたに死ねと言われても今はまだ私、どうせ死なないから」


人はいつか絶対に死ぬんだから。
死ぬ前に、悔いを残さないように生きていこうって、自分は決めているから。


もう一人のクラスメイトが駆け寄ってきて、彼女はコソコソと、瑠衣に話しかけた。


「佐伯さん。あ、私、飯田です。その…久世君に私、憧れてるけど、二人の邪魔する気は、全然無いから!私も、…ごめんね、悪口言って」


「…久世君?」


「佐伯さんが帰ってきてくれて、本当に良かった」



「うん。…ありがとう、飯田さん」



瑠衣はこの状況に全く、気持ちがついていけない。


自分の日記にはこの3か月近くの出来事が、きちんと記してあった。

阿賀野拓也に監禁され、襲われかけた状況の詳細についても、理衣から聞いている。
久世君、滝君、戌井君、理衣が助けに来てくれたという事も。

自分の感情の動きだけは書かなかったため、日記はあくまでも状況を把握するためにしか、役に立たない。

今話しかけてくれた仙崎さんや飯田さんは、日記に名前すら登場していない。
何故、飯田さんは『二人の邪魔』をしないと、言ったのだろう。

久世君と自分の距離感が、全くわからない。




そこに、1人の男子生徒が登校してきた。




「あ、おはよう久世君」
誰かが彼に、挨拶した。



「おはよう」




教室に入ってきた男子生徒は、久世透矢。




すらりとした長身。

さらさらした栗色の、少しだけ長い髪。

滑らかな透き通るような肌と、少し薄茶色がかった美しい瞳。

現実離れした、超絶美形。









瑠衣は、彼と目が合った。









彼は瑠衣だけを、射る様に見つめていた。

















心臓が、音を立てて、何度も鳴り響いた。

















彼が、特別な人だという気がした。



















自分にとって、彼だけが特別であると、
自分の全てが、叫んでいる気がした。



























その時、教室に2人の女生徒が一緒に入ってきた。



漆戸雅さん。手先が器用な、新聞部の可愛い子。

東條泉美さん。演劇部のスター。



瑠衣は、この2人とは1年生の頃から、面識がある。
去年からの知り合いで、特別に親しい間柄ではなかったが、世間話だけでいつまでも、会話が続く楽しい仲。



…で、あったはずだった。











二人は涙を浮かべながら駆け寄ってきて、同時に瑠衣を抱きしめた。









「…?!」








「瑠衣!!」









「瑠衣さん!!!」






え?




え????






「心配したわ…瑠衣。戻ってきてくれて、本当に、良かった」







「…ううっ、ほ、本当に、よ、良かった…です」







涙を流す2人にきつく抱きしめられながら、記憶が一切無い瑠衣はますます、戸惑ってしまった。



と同時に、何故か自分もホッとしてしまい、涙が出そうになってしまった。