「……美麗?」

【電車が発車いたします。白線の後ろまでお下がりください】

お決まりのアナウンスが聞こえている間中、私は彼の腕をしっかりつかんで離せなかった。
最初は驚いた様子だった阿賀野さんは、途中から諦めたのか抵抗せず、ずり落ちそうになるスーツを私の頭にかけなおし始めた。

ゆっくり動き出した電車は、見る見るうちに私たちを置いて小さくなっていく。

「あー、行っちまったな」

「……すみません」

「別に俺はいいけど、どうする?」

「何をですか?」

「今日は土曜日。別に急いで帰らなきゃいけないわけじゃないだろ。一時間待てば電車も来る。どっちにする? 一時間後帰るか。ここで一泊するか」

思考が止まった。
いや、この状態は私が作り出したのだけど。
そうなって残される選択肢がどれくらいあるのかは、考えていなかった。

「帰るんなら、今ので帰ってるんだしな。……泊まるでOK?」

いいわけない。私は嫁入り前の娘で、一応婚約者候補までいるっていうのに。
だけど、これは私が望んだんだ。無意識で、帰ることを嫌がったのだから。

「……お、OK、……です」

「じゃ、宿探そうぜ。土曜は結構込むし。早めに動くに越したことねぇよ」

阿賀野さんはあっさりと了解して動き出した。
私は頭から掛けられた彼のスーツの香りに、「明日もこれを着るなら三日目だな」なんて思ってしまった。

お酒と、温泉の残り香。
明日には、何の香りがついているのだろう。