どうやって業務を終わらせたか覚えていない。
 ただ、何度かもう少し笑顔をとフロアマネージャーに注意され、三条課長の痛ましげな視線を感じた。
 スマートフォンが何度も着信を知らせたが、電源を切って鞄にしまう。
 一人きりの家に帰りたくなくて、明日が休みなのをいいことにあたしは久し振りに実家の門を叩いた。
「あら、笑留っ? まったくあなたって子は、ぜーんぜん連絡よこさないと思ったら急にくるんだもの。ご飯はちゃんと食べてるの? 来るって連絡くれれば、あなたの好きなご飯作っておいたのに」
 パジャマ姿のお母さんがあたしの姿に驚いた顔を見せる。
 電車で一時間とそう遠くはないのに、もう一年近くは帰ってなかった。
「お父さんは?」
「今日は日曜日でしょ。明日仕事早いからってもう寝てるわよ」
 夜十一時を過ぎた時間帯にもう寝ている人もいるのだと、当たり前のことに気づかされる。
 十時過ぎに夕食を摂るのが日常の笑留にとってみれば、身体は疲れていてもまだ宵の口だ。
 朝はそう早くに行かなくていい場合も多いからゆっくりできるが、世間とのズレは否めない。
 土日は休めないから、余計に友達からの誘いはこない。
 もう色々と諦めていたはずなのに、一度休日を共に過ごしたいと思う相手が現れたことで欲張りになったのかもしれない。
 なんだか休みの日に一人でいることが、堪らなく寂しく思えたのだ。
 何も言わずにダイニングテーブルに突っ伏していると、今日の夕飯の残りだろうか、かぼちゃの煮物と魚の煮つけがテーブルに置かれた。
 湯気の立ったお茶漬けにレンゲが添えてある。
「いただきます」
 食費を安く収めようとあたしも料理はするが、やっぱり実家の味は別格だ。
 自分じゃない誰かの作ってくれた料理ってだけで美味しさは十倍増しで、特に温かい食べ物は疲れた心と身体に染み渡る。
「美味しい……」
「ちょっと痩せたんじゃないの? あいかわらず仕事忙しそうだし、目の下にクマができてるわよ? ちゃんと休めてるの?」
「昨日ちょっと寝不足だっただけ。今忙しい時期だから」
「そう、ならいいけど。無理はしないでね」
 お母さんのことを嫌いなわけじゃない。
 あたしをここまで育ててくれた恩を感じるし、何かあれば一番に駆けつけたい。
 でも、未だに心の中に燻ってる思いは消せない。
「ねえ、お母さん」
「なに?」
「前にね……小学校の頃、一回だけお母さんに〝お父さんに似てたらよかった〟って言われたことあるの、覚えてる?」
「え……お父さんに似てたら? そんなことあったかしら……ああ、小学校……もしかしたら、五年生頃のこと?」
「うん、多分」
「そういえば……そうね、あったわね。子育てしてて、ほんと初めてってぐらい、悔しかったのよね」
 お母さんはあたしの向かい側に座ると、急須からお茶を注いで両手を温めるように湯呑みを持った。
 昔を懐かしむように目を細めて、あたしに複雑そうな笑みを見せる。
「悔しいって?」
「覚えてない? いつも仲良くしてたさやかちゃん」
 覚えている。
 むしろ忘れるわけがない。
 あたしは引っ込み思案で、さやかちゃん以外友達と言える存在はいなかった。
 小心者で誰かに積極的に話しかけることもできない子だった。
 休み時間も朝も帰りも、六年間ずっと近くに住んでいるさやかちゃんと一緒に過ごした。
 中学に入ってすぐに彼女は家の都合で引っ越してしまったから、その後連絡は途絶えてしまったけれど、何をするのも一緒だった思い出がある。
「覚えてるけど……」
「すごく活発で、おっとりしてる笑留とは対照的な女の子だったわ。一度だけちょっと揉めたことがあったんだけど……」
 そう言われて思いを巡らせると、頭に浮かんだのはペンケースの話。
 さやかちゃんの机の上に置いてあるペンケースが、床に落ちて壊れてしまったことがあったんだ。
 あたしの身体があたったんじゃなかったけど、他の女の子が笑留ちゃんが落としたって言ったことで犯人はあたしになった。
 違うって言いたかったけど、さやかちゃんにも謝ってよって言われて、諦めてしまった。
 たくさんの人に責められて辛かった。
 でもクラス内で揉めるのも嫌だったし、注目されるのが恥ずかしかった。
 あたしが謝って済むのならそれが一番いいって思った。
 けど、やっぱり家に帰って悔しくて、お母さんにだけは言ったんだ。
 本当はあたしじゃないのにって。
「私も昔からそういうところあったから、笑留の気持ちは理解できた。けど、自分のことなら平気なのに、あなたが泣きそうになりながら大丈夫って我慢してるところ見てたら……どうして、大きな声でその時に違うって言わなかったのって悔しかった。あなたは何も悪くないのにって。あたしに性格似ちゃったから……お父さんみたいに意志の強い性格だったらこんな辛い思いさせなかったのにってね」
 そんなことだったのか。
 いや、多分お母さんにとっては〝そんなこと〟じゃなかったんだ。
 懐かしい思い出を話す表情じゃない。
 今でも思い出せば悔しさしかないって、そんな顔。
 あたしはその後、ペンケースのことをすぐに忘れたんだと思う。
 さやかちゃんとも何事もなかったかのように遊んでいた。
 今、こんな話をお母さんとしてなければ、さやかちゃんのことすら思い出さなかったかもしれない。
 子どもにとっては、日常の中にある瑣末な出来事だ。
 ただ、お母さんに言われた言葉は違った。
 そこに至った背景はすべて忘れていたのに〝お父さんに似てたら〟それだけは頭に残った。
「あたしは……外見がお父さんに似てたらよかったって、言われてるんだと思って……」
「そんなこと言うはずないじゃないっ! っていうか、確かにお父さんはハーフみたいな顔立ちしてるけどね。私だって、大学の頃ミスコンで優勝したことあるんだから……まあ、ちょーっとだけ太っちゃったけどね」
「ちょっと?」
「失礼ね。でも、昔はハーフみたいな顔立ちの人って珍しかったし、目鼻立ちが整ってると美形に見えるからね。そういうところで苦労はさせたと思うけど……あなたは親の贔屓目なしに見ても可愛いし、どこに出しても恥ずかしくないように育てたつもりよ?」
 だから、自信を持ちなさい。
 背中を押されているようだ。
 でも、もう頑張ってもどうにもならないんだけどね。
「笑留。今日はどうして突然来る気になったの?」
「わかんない。自分でもどうにもならないこと……お母さんのせいにしたかったのかも……」
 あたしがお父さんに似てたら。
 そんなこと考えたところで、未来が変わっていた可能性は限りなく低い。
「また何もしないうちに諦めてるんじゃないの? やるだけやってダメだったら後悔なんてしない。でもあなたはまだ一歩を踏み出してもいない。だからそんな風に後ろ髪を引かれる思いでいるんじゃない? まあ、何があったかは知らないけど」
 悔しいって泣いてた小学五年生のあたし。
 同じような顔をしてるわよってお母さんが言った。
 あたしは、どうしたいんだろう。
 麗は大事な友達だ。
 幸せになって欲しいって思ってる。
 三条課長と──?
 麗が三条課長と結婚することを望んだら、あたしは諦めるしかない。
 違う。そんなことはない。
 だって、あたしはまだ……三条課長に何も聞いてない。
 好きだって、可愛いってあたしに安心と自信をくれたあの言葉は嘘じゃない。
 彼のことを信じたい。
「お母さん……あたしね、好きな人がいるの」
「そう。楽しそうでよかったわ」
「うん。王子様みたいに格好良くて、あたしにはもったいないぐらいの人だけど……いつか、お父さんとお母さんみたいになれたらいいな」
「笑留ならきっと大丈夫。今日はこっちに泊まりなさいよ? こんな時間に女の子が外歩いちゃダメ」
「わかってます。お風呂入って寝るね。あ……スマホの充電切ったままだ」
 何度も電話をくれたのは麗か三条課長だろうか。
 もしも三条課長が麗と結婚すると決めたなら、あたしは笑っておめでとうございますって言おう。
 まだあたしにもチャンスがあるなら、諦めない。
 スマートフォンの電源を入れると、留守番電話の通知が届いていた。
 麗と、三条課長から。
 大丈夫。覚悟はできてる。
「笑留。明日の朝ごはん、何がいい?」
「ん〜カツ丼?」
「えぇっ?」
「ふふっ、冗談だよ。いつもどおりでいいから。おやすみ、お母さん」
 電源を入れていると落ち着かなくて、あたしは留守電を聞かずにもう一度スマートフォンの電源を切った。
 ゆっくりお風呂に入って、明日の朝折り返し電話をかけよう。