スマートフォンに何件かの着信が残っていた。
 あたしが仕事が終わるまで履歴を確認しないのは知っているはずなのに、三条課長はよほど慌てていたのだろうか。
 すぐにでもかけ直したい思いに駆られる。
 けど、彼の口から模擬挙式の話を聞きたくはなかった。
 仕事だから仕方ない、ごめんね──そう言われたら、大丈夫ですって頷くしかない。
 会社を出たところでどうしようかと立ち尽くしていると、手の中のスマートフォンが震える。
 発信元は三条英臣──。
 仕事場も一緒だし、避け続けることなんて不可能だ。
 ちゃんと自分でどうにか落としどころを見つけないと。
「はい……」
『あ、笑留? 仕事終わった? あのさ』
「聞きました……模擬挙式のことですよね? あの、あたしは平気ですから、仕事だし、当日の手伝いもさせていただきますので、じゃあおやすみなさい」
『え、ちょっ……』
 言いたいことだけを言って、数秒で通話を切った。
 珍しく慌てた三条課長の声が耳に残る。
 だって、あたしがイヤだって言ったってどうしようもない。
 想像したってわかる。
 三条課長と麗が模擬挙式をすれば、売上も上がるだろうことは一目瞭然だ。
 並んでいてあれだけ自然にお似合いの二人はいない。
 誰しも、自分もああなりたいと願うし、こういう挙式をあげてみたいと思わせる効果は抜群だ。

 一人きりの家に帰る気になれなくて、気がついたら三条課長ときたバーに足を運んでいた。
 明日も仕事だ。
 けど、たまにはフレックスを使って少し遅めに出勤しよう。
 幸い午前中に担当してるお客様の打ち合わせは入っていない。
 時間に余裕があれば、他の担当者の披露宴のヘルプに入ろうかと思っていたぐらいだ。
 忙しい時期だが、それぐらいの融通は利く。
 何を飲むかと聞かれて、カクテルの名前も知らないあたしは、オススメでお願いしますと答えた。
 偶然か否か、目の前のカウンターに出されたのはあの時三条課長が頼んでくれたカクテルと同じ色。
「カンパリ・オレンジ……」
「ええ。そんなに強くないカクテルですから、女性にお勧めすることが多いです」
 バーテンダーの男性はそう答えて、手を上げて店員を呼ぶ他の客の対応にあたった。
 喉が渇いていたのもあって、一気にグラスを傾ける。
 冷たいカクテルが身体に沁みる。
 はぁっと息をついて、もう一度グラスを持ったところでカランと氷が音を立てた。
「もう一杯同じものを作りましょうか?」
「あ、はい……お願いします」
 空腹のままカクテルを飲んだからか、頭が少しクラクラする。
 何か食べようかと考えたが、一人でつまみながら酒を飲むのも侘しくて、これだけ飲んだら店を出ようと決めた。
 運ばれてきた二杯目を、今度はゆっくりと口に含む。
「ねえ、一人で飲んでるの?」
 となりのスツールが引かれて、スーツを着た男性が腰かけた。
 何だろうと重くなった瞼を薄く開けながら小さく頷く。
「一杯ご馳走させてよ」
「いえ……あたし、これ飲んだら帰るので」
「俺も一人で寂しいからさ。じゃあ、それ飲み終わるまで話してていい?」
 俺もって、あたしが寂しい女みたい。
 うん、寂しい女で間違いはないんだけどね。
 勝手に話してくれるならBGMぐらいのつもりで聞いていればいいかと、欠伸を噛み殺してカクテルを飲み進める。
 ずっと仕事が忙しかったからか、本格的に眠くなってきた。
 男性に耳元で喋られて、脳がうるさいとそれを拒否してる。
 目を瞑ると、身体が徐々にカウンターへと沈んでいく。
「眠いの? どこか休めるところに連れて行ってあげようか?」
 肩に手を置かれて、香ってくる匂いはお酒とタバコの匂い。
 男性の距離が近づいて肩を抱き寄せられた瞬間、急に後ろから伸びてきた手がカウンターに置かれ覚えのある声がする。
「この子俺のだから……手離してくれる?」
 いつも聞く声よりも、明らかに不機嫌に冷たい。
 思わずビクッと肩を震わせて、間に入るように立った三条課長の背中を見つめる。
「どうして……」
「でるよ、おいで」
 強く手首を掴まれて、スツールから降ろされる。
 手つきは乱暴ではなかったけれど、三条課長の顔に釘付けになっている男性に気を取られていてバランスを崩した。
「こら、ちゃんと歩けないなら抱っこして帰るけど?」
「だ、大丈夫……です」
 抱っこしてくれるならそれもいいな。
 三条課長に触れられてると幸せで、もっともっと近づきたくなる。
 あたしのことを全部暴いて、あなただけのものにしてって。
 こんな独りよがりの独占欲を知られたくなくて、三条課長の後ろに立った。
 三条課長はあたしの手を強く握ったまま何も言わずに歩きだした。
 繋いだ手のひらはしっとりと汗ばんでいて、ハッと短く吐き出される呼吸は荒い。
 もしかして、急に電話を切ったあたしを心配して探してくれていたのだろうか。
「お、怒ってますか……?」
「キミを不安にさせた自分にね。模擬挙式の件、聞いたんだよね?」
「あ、はい……」
「笑留の耳に入ったら不安になるってわかってたのに、ごめん」
「いえ、仕事なら……」
 仕方ない──そう続けようとすると、三条課長の言葉が被さった。
「今までもそういった打診はあったけど、目立つのが嫌で断ってきた。今回ももちろん断るつもり。けど、断る前に全社員にすでに通達がいってて、今日秀征さん……麗の父親から連絡がきたんだ」
 麗のお父さんが、うちの会社となんの関係があるんだろう。
 どうしても、模擬挙式に麗をモデルとして使いたかったのだろうか。
 麗ほどの美人ならわざわざお父さんが出てこなくとも、広報部から直接打診がありそうなものだ。
「連絡って?」
「披露宴当日に会場に入ってもらうスタッフ、うちが取引してる派遣会社は麗の父親が持ってる会社なんだ。それに、演出や司会の人材も滝川グループの会社の一つだ。今回の模擬挙式引き受けないと、今後の取引どうなるかわからないと脅しをかけてきた」
「え……脅し……?」
 あたしにだってわかる。
 もしも取引を中止されたら大変なことになるって。
 うちの会社は、いくつかの派遣会社や芸能事務所から、実績ある司会者やエンターテイナーを派遣してもらっている。
 麗のお父さんが圧力をかけていたとしてたら、明日予定している披露宴すらうちはまともに行えなくなってしまうかもしれない。
 料理を運ぶスタッフや、司会者、出演を予定しているマジシャン。その人たちが披露宴当日にキャンセルを申し出たら。
「麗のお父さんは、そんなに英臣さんと麗を結婚させたいんですか」
「多分、俺って言うより……麗が付き合ってる相手が問題なんだ。麗の恋人は滝川プロダクションに所属してる俳優だから……それもまだまだ知名度のない、ね。今回のことは壮大な親子喧嘩だよ」
 まったく迷惑な話だ……とは思えない。
 三条課長のことだし、麗は大事な友達だ。
 今日は仕事がバタバタしていて顔を合わせていないが、麗は大丈夫だろうか。
「英臣さんが模擬挙式にでれば……麗のお父さんは納得するんですか?」
「根本的な問題は、麗がちゃんと話し合わないとどうにもならないね。秀征さんは外堀から固めようとしてるんだろうけど、その思惑に乗るつもりはないし。笑留、ごめんね。こういうことに、キミを巻き込みたくはなかった」
「隠されるより、巻き込んでくれた方が……嬉しいです」
「ね、笑留……このまま行くと俺のマンションなんだけど、今日は覚悟してうちに泊まってくれる?」
 三条課長に囁くように言われた言葉の意味を、こんな時だけ正確に理解してしまった。
 ムズムズと落ち着かない。
 くすぐったくて、甘い……でもそれがイヤじゃなくて、あたしは三条課長の手をキュッと握り返した。