「笑留」
 驚いて身体を硬直させるあたしを宥めるようにかけられた声は、三条課長のものだった。
「び、びっくり……します」
「あはは、ごめんね。前を歩いてるのが見えたからさ。つい、嬉しくて驚かせちゃった」
 すぐに離れていくと思っていたのに、三条課長の腕はあたしの胸の前に回ったままだ。
 会社からこんなに近い場所で、他の人見られたりしたら。
「あの……離さなくて、いいんですか?」
「ん? 離したくないなって言ったら怒る?」
「怒りませんけど、困ります」
「それはどうして?」
「だって、誰かに見られたら課長が困るし……」
 あたしもドキドキして死んじゃいそうなんです、とは言えなかった。
 顔に熱が集まって、ジワジワと汗が噴きでてくる。
 汗くさいとか汚いとか思われていたら、どうしよう。三条課長はいつだって清潔そうなフレグランスの香りがするのに。
「俺は困らないから、もう少しこうしてていい? ね、笑留……できれば、こっち向いて」
 身体を反転させられて、三条課長の胸に顔を埋める体勢になる。あたしは直立不動のまま微動だにできない。
 昼に嗅いだ清潔そうな香りが、より濃く鼻に届く。
 ギュッと強めに身体を引き寄せられて、驚いて彼のスーツの裾を掴んでしまった。
 シワになると慌てて手を離そうとするが、三条課長の言葉がそれを止めた。
「手、背中に回してよ」
「せ、なか……?」
「そう、こうして、ほら」
 手を掴まれて、背中へと誘導される。
 さっきよりもずっと密着した身体から聞こえる鼓動は、あたしの音なのか三条課長の音なのかわからない。
 ドクドクと鳴る心音は、いつもよりもずっと速かった。
「い、いつまで……こうしてればいいですか?」
「嫌?」
「嫌じゃないです。だから、困るんです」
 あたしみたいなのでも、三条課長に抱きしめてもらえる。
 そのことが、あたしを自惚れさせてしまう。
 憧れだけで終わるはずの想いは、今日だけでだいぶかさが増してしまった。
 もう溢れそうで仕方がない。
 期待するな、ただの恋人のフリだと言ってくれないと困ってしまう。
「俺は、キミをもっと困らせたいみたいだ。性格悪くてごめんね」
 長く下ろした前髪をかき上げられて、久しぶりに視界がクリアになった。
 髪を結んでいるゴムがピッと引っ張られて外される。
 量の多い髪は、パサついていてふわっと横に広がった。
 何するんですかと三条課長を見上げると、驚くほど近くに端正な顔があった。スローモーションのように彼の顔が近づいてきて、あたしは彼の目に吸い寄せられるように見惚れていた。
 薄く唇を開いた瞬間、湿った音を立てて唇が重ねられた。
 あたし、今……キスしてる。
 初めてのキスは、喜びと悲しみがない交ぜになって、もう心の中がグチャグチャだ。
 何度か角度を変えて口づけられても、身体はピクリとも動かないし目を瞑ることもできない。
 三条課長はあたしのこと好きなわけではない。
 ただ、恋人のフリ、婚約者のフリをして欲しいから、こんな風に接してくるだけ。あたしをその気にさせた方が信憑性も高まるというものだ。それはわかる。
 それでもいいって納得したはずだ。
 けれど、三条課長は好きでもない女にキスできるんだ、そう考えると悲しさが溢れてきてしまう。
 同時に、抱きしめてくれたり、キスしてくれたり、喜びも確かにあって。
 もう悲しいのか何なのかわからなくなった。
「ほんとに、困ります……」
 やっと自由になって口から発せられた言葉は可愛げの一つもない。
 淡々と言わないと、泣いてしまいそうだったから。好きな人との初めてのキスなのに、彼に想われているわけではないことに辛くなってしまった。贅沢だ。もともと、三条課長と付き合うなんて、ただの妄想の中のことだったはずなのに。
 現実でそれを期待してはいけない。そう言い聞かせていないと、彼との距離が近過ぎて収まらなくなってしまう。
「俺も困る。恋人が触らせてくれないと、我慢できなくなりそうで……本当に困る」
「今だけ……じゃないですか」
「今だけじゃないよって言ったら、笑留は安心する?」
「嘘だって思います」
 そんなの嘘に決まってる。
 三条課長があたしを好きだなんて、天地がひっくり返っても有り得ない。
「だよね。だから、キミに俺の想いを信じさせてあげるよ」
 絡められた手は、あたしと違って少し冷たかった。
 もう一度、唇が降りてくる。
 嘘でもいい。妄想でもいい。
 俺の想いを信じて──そう告げられているみたいだった。
 今度は目を瞑って、ひとときの幸せをかみしめた。