少し待っててと、三条課長は執務室の奥にある部屋へと入って行った。
 微かにシャワーの音が聞こえてくる。
 午後は打ち合わせが入っていると言っていたから、そのために着替えるのだろう。
 あたしも、上司の許可を得ているとはいえ、いつまでもここにいるわけにもいかない。
 一月後に披露宴を控えている担当のお客様の、席次表や生花の手続き、料理に間違いがないかを確認する予定だ。
 一生に一度のこと、まあ一度とは限らないのは悲しいかな本当のことだけれど、この仕事はあたしは大好きだ。
 けして失敗は許されないが、全員を笑顔で見送ることができるから。
 悲しい顔をして式場をでる人はいない。
 新郎新婦もその家族も、みんなが嬉しそうに笑いあって、これからの新生活に心を躍らせている。
 今日は本当に楽しかった、ありがとうと言われることも多い。
 そのたびに、土日だって休みはないし、夜も遅いけれど、緻密な打ち合わせを重ねて今日を迎えることができてよかったと、あたし自身の頑張りを認められたように思うのだ。
「ごめんね、お待たせ」
 ドアが開いて、新しいスーツに身を包んだ三条課長が部屋からでてきた。清潔そうなシャンプーの匂いが漂ってきて、つい三十分前にこの人がラーメンを食べていたことは、あたしの白昼夢だったのではないかと思う。
「あ、いえ……あの、あたしそろそろ」
 ソファーから立ち上がると、三条課長が手をあたしの前に差し出してくる。
「そうだね。その前にスマホ貸して?」
「え、あ、すみません。スマホロッカーに入れてて……今、ないんですけど。電話でもかけるんですか?」
 申し訳ありません、と頭を下げると、三条課長は鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をしてあたしを見つめてくる。そんなにスマートフォンを持っていないことがおかしいのだろうか。
 たしかに、周りの同僚は常にポケットの中に持ち歩いていることが多かったけれど、あたしにはよくわからなかった。
 昼休みにチェックしなければならないほど、火急の要件などそうそうないし、ゲームなどをしているわけでもないから必要もない。
「さりげなく番号の交換を断られてるってわけじゃないんだよね?」
「え……?」
 番号の交換?
 言われている意味が理解できない。
「そっか、そっか……俺はまず、笑留に意識してもらうことから始めないといけないのか」
「……?」
 ますます意味がわからない。
 三条課長はうんうんと、自分一人だけで納得した様子を見せると、幅の広い木のデスクに置いてあるメモにサラサラと何かを書き込んだ。
「はい、これ俺の番号ね。あと、SNSのIDも書いてあるから、仕事終わったら連絡くれる? 何時でも構わないから」
「はい、わかりました」
 あ、そうか。
 恋人のフリをするのに、連絡先も知らないのではおかしい。
 もしかして、ものすごく感じ悪かった……かもしれない。
 〝今、スマホ持ってない〟はナンパされて断る時の常套句だと、麗が言っていたことを思い出した。
 あたしは本当に持ってないから、正直にそう答えただけだけど、三条課長からしたら番号を教えたくないと感じたのかもしれない。
 なんだか、もう……ますます自己嫌悪に陥りそうだ。
 どうして、好きな人相手だとうまく話せないんだろう。
 誰に対しても、明るく社交的な麗みたいになりたかった。
 もらったメモをなくさないようにポケットに入れて、重苦しいため息が漏れた。