こんな気持ちで、家に帰るのは初めてだった。


寒いね、なんて言い合いながら、彼氏の腕に腕を絡ませて、ぎゅっとくっついて嬉しそうにしている女の子。



今は、見たくない、幸せそうな表情。



私だって、寒いねって言ったら暖めてくれる彼氏が居たのに、今はもう居ない。


見知らぬカップルを見て、僻むなんて。



こんな気持ちになんて、なりたくなかった。




今は、何も考えられない。ただ、ぼうぜんと前を歩くことしかできない。


強い寒風が吹いて、凍えた心がもっと凍える。


ブーツのヒールの音をコツコツと寂しく響かせながら、ニットのワンピース姿で、ぼうぜんとしながら心ここにあらず状態のまま、足を無意識的に駅に向かわせた。



駅に行くには必ず通らなければいけない、いつも通勤路で使う喧騒な繁華街の中央を重い足を引きずりながら、思考が停止して考えることを放棄した頭と放心状態の心で歩いて行く。



「おい、佐藤?」




不意に突然、背後から聞き覚えのある低い男の人の落ち着いた声が聞こえて、立ち止まってから振り返った。



「か、課長…」




目の前には、数時間前まで同じ会社の同じ部署で同じフロアで顔を合わせていた、鬼頭課長がスーパーのレジ袋を片手に持って立っていた。



鬼頭課長の姿を見た途端、条件反射的に会社の時と同じく直立不動の姿勢になり、私はビシッと背筋を伸ばした。



かっ、か課長に、会っちゃった…。





もしかして、また怒られる? さっき仕事中に私がしでかした大きなミスについてまたここでお説教されるのかな…?



停止していた思考が急速に動き出して、課長に説教されるのかはたまた歯に衣を着せない言い方で怒られるのかと、ビクビクドキドキしながら身構えた。



怒られる?それとも、説教?



課長が社内で私に話しかけるとしたら、だいだいこの二つの時だけ。




さっきまでやっくんとあんな別れ話をして、一方的に別れを告げられたという急展開に戸惑いショックを受けて、課長のことすら忘れていたのに、今は課長を目の前にした途端一気に意識と思考が戻ってきた。


課長の前では、ぼけっとしてはダメ!


しっかりとした態度でいなきゃダメって、そう刷り込まれた潜在意識が出ている。



彼氏にフラれた直後に、“鬼の課長”と私が密かに呼んでいる課長に会いたくはなかったけれど、カフェの窓辺の席辺りくらいに置いてきていた私の意識を強制的に取り戻させてくれた課長に、ほんの少しだけ会えて良かったと思った。



やっくんのことを、一時的に課長の前では忘れられていたから。




「お前、こんなところで何してんだよ」



姿勢を正している私に近づいた課長は、仕事の時と同じように眉間に皺を寄せて、切れ長の目を冷たく細めながらそう言った。



「…帰宅途中ですけど」


私がこんなところで何しているかなんて、課長が気になることではないのでは?


課長こそ、何故レジ袋を持ってこんなところに?


わざわざ通りすがりの私を呼び止めた課長に疑問を抱きながらそうとは聞けず、放心になっている私は愛想なくそのまま答えた。



「ふーん。お前、こんなくそ寒いのに、上
、着なくていいのか? 身体悪くするぞ」



「…いえ、…なんだか暑いので…?」



呼び止めた上に、キャメルのダッフルコートを着ていない私を、もしかしてあの鬼の課長が心配している?


なぜ…?



「ふっ、なんで疑問形なんだよ。まぁ、風邪引くなよ。じゃあな。また明日」



課長は左手を低く挙げてからそれだけ言うと、私とは反対の方向へと長い脚を動かして向かった。



なんだったんだろう?いつもは私の姿を見つけた途端、いつも不機嫌そうに睨んできて、怒ってくるのに。


会社じゃないから? 私との仕事が終わってからの、帰宅中だから?



わざわざ私を呼び止めて、上着を着ていないことを気にしてから心配するようなことを言うなんて。



いつもと違う課長に小首を傾げつつ、寒気を感じた私はダッフルコートを羽織り、マフラーを首に巻いてから、とぼとぼと駅へと歩き出した。