「ただいま…」

自分で玄関の鍵を開けてリビングに向かうと、咲がソファに座ってスマホを見ていた。

チラッとだけ俺の方を見て、
「おかえりなさい」
と呟く。

あー…、これ、完全に怒ってるやつ。

俺は上着も脱がずカバンも持ったまま、咲の目の前に立った。


「ごめん、飲んで来た」

「うん、いいよ。
仕事のつきあいでしょ?」


咲の目線はスマホの画面に落ちたまま。

「ホントにごめん、今日、」

「いいってば」

「怒ってるんでしょ?」

「怒ってないよ。仕方ないじゃん。」

「じゃあ、こっち見てよ」


咲は、やっと俺の顔を見上げた。

明らかに不機嫌な顔。

仕方ない。

忘れたのは俺だ。

少し彼女の方へ近づくと、あからさまに嫌な顔をする。

「なんだよ…」

彼女は又下を向いて、首を左右に振った。

最近彼女は、黙りこむ事が多い。


「お母さん」

呼びかけると、肩をビクッとさせる。


なんだよ。

俺、なんか変な事言ったか?


「お母さん。ごめん、今日…、」

もう一度呼びかけると、

「お母さんて誰?」

俯いたまま彼女が言う。


は⁇

うちでお母さんは咲1人だ。

子供が生まれてから、俺もだんだんと彼女を『お母さん』と呼ぶようになった。

今では、全く名前で呼ぶ事はなくなった。

でも、その事で今までに何か言われた事はない。


「私は『お母さん』って名前じゃない」

彼女がソファから俺を見上げる。

どうしたって言うんだよ、急に‥。