ケータイ小説 野いちご

金の玩具姫

崩壊
心的外傷

***

 ばたん、と背後で玄関が閉まった。きっとこの音で帰ってきたことは伝わっただろう。

 だから、特に何も言わず、靴を脱いだ。

「……おかえり、遅かったね」

 リビングでこちらに視線もくれずスマホを弄る莱にそう言われた。

 広い一軒家に姉弟ふたりだけの生活。豪邸とかじゃなくて、少し立派な一軒家。

 あんまり金持ちって感じの家は母さんたち、好きじゃないらしい。日本に来る前に住んでたところにある家も、普通の家だった。

「ねえ、もう9時だよ? 何時間経ったと思ってんの?」

 莱を無視して2階の自分の部屋に行こうとしたら、鋭い声に咎められた。

「……」

「鈴也の家行ってたんでしょ? それにしても遅すぎる」

 ……鬱陶しいな。

「莱に関係ない」

「関係あるよ。優愛になんかあったら母さんたちになんて言えばいいの」

 すう、と自分の中の何かが冷えていく感覚がした。小さく息を吐き出す。

「それにさ、鈴也と付き合ってるけど、また、優愛に気持ちなんかないでしょ。相手が可哀想だし、止めなよ」

 あたしに気持ちなんかない。ことあるごとに言われるその言葉、もう聞き飽きた。

「また捨てられるまで言いなりでしょ。そんなんじゃ――」

 近くに来た莱を突き飛ばした。頭の中に、ぐるぐると昔のことが蘇る。

「莱に、関係、ない」

 ゆっくりと低く呟くと、左腕を掴まれた。

「俺は、優愛のためを思って……!」

「煩いッ!」

 掴まれた手を、振り払った。苦い顔をする莱の胸ぐらを掴んだ。

「莱に何がわかるのっ!」

「わかんないよっ、だって優愛、何も言わないじゃん!」

「わかんないんでしょっ、なら口出ししないで! 何も知らないくせに、何もわからないくせにッ」

 なぜか傷ついた顔をする莱を見ても、何も思わない。目の前の傷ついた顔はちゃんと見えているはずなのに、頭の中に鮮明に浮かぶ記憶の方に意識をとられる。

「他人がっ、あたしの問題に口出しするな!」

 くしゃり、泣きそうに顔を歪めた莱は俯いた。

「あんたにっ、あたしの苦痛が、わかるはずないッ!」

 莱の胸ぐらから手を離す。どさ、と床に崩れた莱。

「……知ってる、よ」

 俯いたまま、呟く。泣き出しそうなその声音に、吐き気がしそうだ。

「優愛が苦しんでることも、その苦痛は優愛の問題ってことも、俺が……優愛の苦痛をわからないってこともっ」

 真っ白になるまで握り締められた莱の手。

「でも…っ、目の前で苦しんでるの見てて……ほっとけない! 優愛がこれ以上壊れてくのは見たくない!」

「……そんなの、莱のエゴじゃん」

「知ってるよっ、けどっ、見てられないんだっ!」

「見てられないならっ!」

 あたしの扱い方がわからなくて、見てられないなら。

「あたしを捨てればいいでしょ! みんなみたいに、母さんたちみたいにっ、あたしから離れればいいでしょ……!」

 しん、と一瞬音が消える。

「か、母さんたちはっ、優愛から離れたわけじゃッ」

「仕事を口実にあたしから離れたいだけでしょっ、あんただってあたしを捨てれば……っ」

 莱が、驚いたように、あたしの背後を見て、目を見開く。

 誰かいるのかと、振り返ったその先にいたのは。

「……伯父さん……」

「玄関、鍵開きっぱなしだったよ。物騒でしょ、いくら喧嘩ができるからって」

 そう言いながらあたしと莱の間に割って入ったのは、母さんの兄の、桃李伯父さんだった。

 思わずどうしたらいいかわからなくなって、目線を足下に落とす。

 この人には適わない。母さんより、父さんより、この人は口が達者だから。何を言っても、最後には丸め込まれてしまう。

「莱、少し頭冷やしておいで」

「でも……」

「大丈夫、少しだけ」

 伯父さんに促された莱がリビングを出て行く。

「優愛、座りな」

 手を引かれて、ソファに座る。莱がさっきまで座っていたそこは、もう冷たくなっていた。

 向かいのソファに座った伯父さんをちらり伺い見ると、妹と同じ、母さんの、片目と同じ、色素の薄い瞳が、真っ直ぐに、あたしを見ていた。居心地が悪くて目線を逸らすと、小さく息を吐く音が聞こえる。

「……ふたりの言い争い、初めから聞いてたよ」

「……」

「杏莉が、信じられない?」

 縦にも、横にも、首を振ることができなかった。

「優愛は、杏莉がここに帰ってこない理由が自分のせいだと思ってるんだ?」

 伯父さんの声は、酷く優しい。だから、余計、苦しくなる。

 苦しくて――息が、上手くできない。呼吸の仕方がわからなくなる。

「どんなところが理由だと思ってるの?」

「……」

 思うところはたくさんあった。けど、色んな気持ちがそれを喉の奥で塞いで、つっかえて、うまく出てこない。服の襟をくしゃりと掴んだ。

「莱に言うみたいに言ってごらん。聞くだけだよ、杏莉に告げ口するつもりもない」

 ぐるぐると頭の中をいろんなことが過ぎっていく。じわ、と視界が歪んだ。

「優愛?」

 ぽた、と膝の上で握り締めた手の上に雫が落ちた。

 あたしに無理に触れてこない優しさと、時に触れることを厭わない優しさは、母さんたちには、ないものだ。

「――しがっ、あたしが、こんなっ、厄介な病気っ」

 あたしが、病気だから。扱いにくいから。

「あたしが扱いにくいから……っ、気を使うの、疲れてっ、あたしのことっ」

 母さんたちは、あたしのことを、捨てたんじゃないか。

「なるほどね。優愛が扱いにくいから、捨てられたと思ったんだ」

 手の甲で涙を拭った。けど、視界のぼやけは変わらない。

「杏莉は、優愛のことなんて言ってるの?」

 ぞっと、熱くなった目頭が一瞬のうちに冷める。冷めた感じがしたのに、余計、涙があふれる。

 口に出すのも悍(おぞ)ましい、その言葉。塞ぐように、自分の手で肩をぎゅっと掴んだ。

「……ぁ、……っ」

 “それ”を声として音を振るわせようと口を開いたときに、かちかちと絶え間無くぶつかる歯に気付き、自分が震えているのだと気づく。

 痙攣するかのような震えは止らなくて。はっはっと犬のような荒く浅い息に、肺が固く苦しくなっていく。

 さっと顔色を変えた伯父さんが、あたしの前に膝をつく。

「優愛。優愛、俺を見て」

 頬に優しく、けれど力強く添えられた手に促され、目の前の人を見る。

「――ひっ、ぃ」

 目に映った、“あたしそっくりな”人に、思わず悲鳴を上げた。

「優愛、目を見て。優愛」

「あ……ぁぁっ、ぃや……っ」

 目の前の人の体をできるだけ、持てる力すべて使って押しのけるものの。

「優愛、優愛!」

「ぃっ、ちがっ、あ、たし……っ」

 ちがう、ちがうの、ちがう。

 あたし、あたしは、“わたし”はっ……!

「わたしっ、は……」

 肺が固く突っ張って、きりきりと痛む。ただでさえ浅い呼吸が更に浅くなるのがわかって、大きく息を吸い込んでも固い肺は膨らんでくれず、うまく呼吸ができなくて噎せ込んだ。

「ぅ、げほッ、わた、し、はっ」

 ……あれ。

 わたし……?

 ――わたしって、だれだっけ?

 しん、と時が止まったように世界から音がなくなった。

『壊れた玩具は必要ない』

『もう、用済みだよ。“アンリ”』

 わたしって、だれ、だっけ……?

 ヒツヨウナイ……? ひつようないって、なに? ヨウズミ? 用済み……?

「ぁぁあ……」

『もう、いらない』

「ぁあああああああああああああああッ!」

 いらないいらないいらないイラないいラないいらナイいらナいイラナいいらなイイラなイイラナイイラナイイラナイイラナイイラナイイラナイイラナイイラナイイラナイイラナイイラナイイラナイイラナイイラナイイラナイ――いらないって、なに?

「いやあああっ、ちがう、ちがうっ、ちがう……ッ、わたし、っいやだああッ」

 イラナイなんていやだ、いや、いや。

 ちがう、ちがうの、全部まちがってる、ちがうちがうちがう……!

「いやあっ、イラナイのはいやっ、捨てないで捨てないで捨てないでッ」

 捨てられたくない、棄てられたくない。お願い、お願いだから、ステないで。

 目の前の人に必死に縋った。だって、捨てられたくないの、わたしは、イラナイのはいや、いやっ。

 背中に回された手が、痛いほどに締め付け抱き寄せられる。その胸に必死に縋り付くことしかできない。

「ごめんなさいごめんなさいっ、捨てないでっ、捨てられたくないっ、わがまま言わないからっ、イイ子にするからイイ子になるからッ! なんでもするっ、なんでも、なんでもしますっ、なんでもしますからッ、いや、いやだっいやいや捨てないで捨てないで……っ」

「優愛」

「お願いしますっ、なんでもしますっ、だ、からっ、捨てないでっ、すてないでくださ――」

「優愛!」

 鼓膜がきんと痛くなるほど大きな声で、耳の傍で言われ、その2文字を拾う。

 ……ゆあって、なに……?

「キミの名前は何?」

「わ、たしは……わたしは、アン――」

「優愛だ。神藤優愛。アンリじゃない」

「ゆあ……? ちがうの、わたしは、」

「違わない、優愛だ。優愛なんだよ」

 耳を覆うように添えられたひんやりと冷たい両手。至近距離で自分を見つめる色素の薄い瞳をぼんやりと見つめる。

 ――そこには、ぼろぼろの、玩具があった。

 虚ろな空色の目をして、ぐしゃぐしゃになったブロンドの髪を持つ、玩具。

 決して、それは色素の薄い色と血の色の瞳ではない。眩いほどの白銀の髪でもない。

 ――嗚呼。

「あ……あた、し……」

「キミの名前は、何?」

「あたしは……」

 あたしは、……そう、優愛、だ。そう、あたしは、確かに。

「“アンリ”じゃないでしょう?」

「違う……あたしは、アンリじゃ……違う、あたしは、優愛……」

 噛みしめるように何度も何度も繰り返す。あたしを抱き締め頭を撫でる手が、噛み締めた言葉が正解だと、教えてくれる。

「おかえり、優愛」

 その言葉が聞こえた瞬間、何かが壊れた。一気に溢れた涙が抱き締められているせいで落ちずに伯父さんの服に吸いこまれる。

「ぁぁあああっ」

 怖かった、こわかった。

 自分が自分じゃなくなる感覚。必要のなくなってうち捨てられた玩具になった瞬間。

「た、……っだいま……ッ」

 思い出したくないのに鮮明に脳裏に浮かぶ出来事。

 あの時に起こったことも、言われた言葉も、全部、鮮明に思い出せる。

 まるで、自分の中でもうひとりの自分が、過去という映像を見ているように。鮮明すぎる過去(おもいで)が、蘇る。

「あたしは……っ」

 嫌というほど刻まれた低い声。気が狂うほど、ずっと……。

「あたしは、杏莉じゃないっ」

 自分が誰かわからなくなるくらい、ずっと、“杏莉”を呼ばれた。

 “杏莉”を否定したら殴られて……。気持ちのない“あいしてる”を強要された。

 無理矢理覚えさせられた他人の体温は、泣きたくなるくらい熱くて。“あそこ”から出すために、あたしを助けるために来た、あの人を、あたしは拒んだんだ。

「……嫌なことを、思い出させたね」

 一定のリズムで首の付け根を叩く手と、さっきの疲れが眠気を手招く。

「……あい、してる……って」

「……うん」

「家族、として……“アイシテル”んだ、って……」

 あの人は、母さんはいつも屈託ない笑顔で、言う。……それが、余計苦しくなるのに。

「あいしてるって、好きって、何……好きって、愛情って、何なの……?」

 微睡みの中、そう問う。自問しているのか、はたまた伯父さんに問うているのか、わからないけれど。

「愛情なんて……、りかい、できない……」

 理解、したくないの。

 薄れゆく景色の中で。あたしの世界を壊す人が、手を振っていた。

***

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