向かった場所は、公園。
 周りは、閑静な住宅街。車の行きかう表通りから、少し外れた場所にそこはあった。
 決して新しくなく、遊具の塗装なんかは剥がれているのも多いけれど、僕はここが結構好きだった。
 なんとなく、味わいがある。きっと日本人の好むわびさびという奴だ。……多分。

 手近な自動販売機で缶コーヒーを買って、僕はベンチに座る。
 古臭い木のベンチは、少し湿っぽかった気がするけれど、気にしない。
 遠目に、散歩している男の人の姿が見えた。視界の端の砂場では、小さな子供が何人かで遊んでいた。

 なんとも、のどかな光景だった。

「ふう~」

 思い切り、背伸びをする。胸いっぱいに息を吸い込む。
 こんなのんびりするのは、本当にひさしぶりな気がした。
 学校でも、自宅でも、僕の心は安らがない。
 受験が終わるまでの一ヶ月。
 それまでこんな日々が続くかと思うと、暗澹たる気分になる。
 いや、そもそも。

(その先だって、わからないよな……)

 合格したとしても、別にそれほど志望する学校じゃない。それに、それは仲のよかった友人を蹴落としてしまうことを意味する。

(そう思う僕は、甘いのかな……)

 かつての友人の、嫌味と皮肉が脳裏によぎった。
 だからって不合格でも、それはそれで何が解決するわけでもない。
 城阪には勝ち誇られるだろうし、勝手に期待している母さんや先生に何て言われるか。

「……はあ」

 色々と考えていたら、また気が沈んできた。あーあ、これじゃあ、気晴らしにならないじゃないか。
 そう思った瞬間。

「え? わっ!」

 急に、目の前が真っ暗になった。

「だーれだ?」

 続いて、聞き覚えのある声が耳に届く。

「いきなり、何するんだよ!」

 僕は振り返って、文句を言う。

「あはは、ごめんごめん」

 後ろに立っていたクラスメートの少女が、悪びれた風もなくけらけらと笑っていた。

「いやー、何かこー君、ぼうーっとしてたからさあ」

 更に文句を言おうとして、僕は言葉を失ってしまった。
 いつも見慣れた学生服ではなく、可愛らしい私服姿の水無瀬さん。薄水色のパーカーに、紺のプリーツスカート。
 その姿に、少しだけ見惚れてしまったからだ。
 やっつけジャンパーな、自分の私服に少し恥ずかしくなった。

「……ん?」

 呆然とする僕を、きょとんと見返してくる。
 やがてその顔が、にや~っと笑う。

「なあに? もしかして、あたしのかっこに見惚れてたりするの?」

「あ……べ、別に」

 声が上ずっているのが自分でもわかる。
 多分、顔も赤くなっているんじゃないだろうか。 
 今更ながらに、まじまじと見つめてしまった水無瀬さんの可愛い顔とか、僕の顔を触った細い指先とか、そういったものが、思い出されてくる。

(あ~っ、落ち着け! 落ち着くんだ僕!)

 なんていうか、これじゃあムチャクチャかっこ悪い。

「こー君?」

「うえっ!」

 すぐ真横から声が聞こえて、僕は思わず飛び退った。
 何時の間にか回り込んでいた水無瀬さんが、ベンチに座っていたのだ。

「んー、何かそういう態度傷つくんですけど」

 不満そうな顔をする水無瀬さん。

「こー君、あたしのこと嫌いなの」

「……い、いや、そんなことはないけど」

 むしろ、その逆ですけど。
 あまり女の子に免疫のない僕は、こうやってあけっぴろげに接してこられると、どう反応すればいいか困ってしまうんだ。……我ながら、情けない。

「ふーん」

 水無瀬さんは、僕を冷ややかに見つめてから、『まあ、いっか』と肩をすくめた。

「でもさ、珍しいね。こー君が、休日に公園でぼーっとしてるなんてさ」

「……まあね」

 僕は、何となく水無瀬さんと並んで座るのも気が引けたので。立ったまま、頬をかく

「たまには、気分転換しようかなと思ってさ……」

 まあ、その意図に反して。あまり、気分転換にもなっていないのだろうけど。

「ふうん」

 今度は、さっきとは違った意味ありげな視線で僕をまじまじと見てくる。

「……な、何?」

 そういったことに慣れていない僕は、またうろたえる。

「じゃあ、気分転換付き合ったげようか」

 と、財布を取り出す水無瀬さん。

「これ」

 財布の中から、折りたたまれた紙片を手に取った。それを、僕に見せてくる。

「それは?」

 どこかの喫茶店のサービス券みたいだった。いったい、それがどうしたと言うのだろうか?
 僕の疑問が伝わったのか、水無瀬さんは眉をひそめた。

「鈍いねえ。こー君は。一緒にお茶でもしませんか、って言ってるの」

「……え? えーっ!」

 一瞬遅れて、彼女の言葉の意味を理解した僕は大声を上げていた。

「ちょっと、声大きいよ」

 しーっ、と自分の口元に人差し指を立てて、水無瀬さんは周囲を気にした。
 とりあえず、それほど注目を集めたわけではないと知って、安心したようだ。

「で、どうなの?」

 僕に視線を戻して、尋ねてくる。
 つまり、それは……そういうことなのだろうか。
 少し顔をしかめて、上目使いに僕を見上げてくる水無瀬さん。ちょっとだけ、その頬に赤味が差しているのは……気のせいじゃないのだろうか。
 僕の、勝手な自惚れじゃないのだろうか。

「こー君、あたしのお誘い受けてくれるの?」
 

 もちろん、断るわけがなかった。
 

       ◇
 

 その日、僕は生まれて初めて女の子とデートをした。
 いや……ちょっと喫茶店で二時間ほど話をしただけだけどね。
 それでも、僕にとっては充分過ぎた。
 通学路で、あるいは学校で話すのとは全然違う。

 喫茶店と言うのも初めてだった。
 時々横目に通り過ぎるくらい。何だか、今は逆に外を通り過ぎていく人影が、無性に気になった。どうせなら、奥の席の方が落ち着いたかもしれない。
 出されたコーヒーは、さっき飲んだ缶コーヒーの三倍以上の価格。無駄に……いや、価格の分、高く見えた。
 味は、よくわからなかった。 

 笑顔で水無瀬さんが進めてくる、何かおしゃれな感じのケーキも、きっちりと味わえなかった。もったいなかった。
 胸がどきどきして、舞い上がってしまい、話した内容の半分も頭に残っていなかった。
 それでも、帰り際。

『じゃあ、今度はこー君から誘ってね』

 受験終わってからでいいから。そう、付け加えて、言葉を残していってくれたのだから、それほどポカしなかったのだと思う。
 いやいや、それどころか……。

(いい感じじゃないか)

 少なからず好意を持っていた女の子からデートに誘われて、遠回しにだけど次の約束も交わしたんだ。
 さっきまでの憂鬱は、まだ完全ではないけれど、大分なくなっていた。

(よし、もう少しなんだ!)

 まだ割り切れない気持ちもあるけれど、自分のできる範囲で勉強を頑張ろう。 
 そう、思えるくらいにはなっていたから。
 腕時計に目を落とす。
 時間は、三時を過ぎていた。
 まだまだ明るい。

 空を見上げると、青空の快晴はまだ継続中だった。
 気が付くと、小走りになっている。
 道脇の鏡に映り、すれ違った僕の横顔は、何だか元気だった。

(……少し、遅くなったかな)

 もしかしたら、母さんが怒っているかもしれない。
 そんな不安もあったけれど、それでもいい気分転換になったんだ。母さんも許してくれるさ。
 そうだ、遅くなった時間以上に頑張ればいい。
 そう、思っていた。
   

 けれど、甘かった。


「どこに行ってたの?」

 玄関前で待ち構えていた母さんは、僕の予想以上に怒っていた。

「……その、ちょっと友達と」
 剣幕に圧されて、そう口走ってしまったのが、更に火に油を注いでしまったらしい。

「耕介! あなた、今がどれだけ大切な時期かわかっているの!? そんなことだから、成績が伸びないのよ! 城阪君を、見なさい! あなたは恥ずかしくないの!」 

 僕の言葉なんて、聞く耳持たない。 
 僕の気持ちなんて、考えてくれない。

「……ごめんなさい」

 そんな不満も、やっぱり押し殺して僕は謝った。
 一方的にがなりたてる母さんの言葉を、視線を落として、ただ一方的に受け止める。 
 その間、玄関隅に片付けられた古い靴を眺めていた。

「さあ! 今からすぐに勉強するの! 晩御飯まで、その後もみっちりとね!」

「……うん、わかったよ」
 

 そうして。 
 
『本当に?』
 
『本当です』
 
『本当の、本当に?』
 
 その夜。
 机に向かって、閉じたままの参考書に肘を置きながら。
 

 ――僕は、三度目のメールをした。